「ただいまのお歌のなかに『神が表に現われて、善と悪とを立て別ける』というお言葉がありましたが、実際にこの世にわれわれを守つてくださる尊い神があるのでしようか。善悪を公明正大に審判いてくださる、誠の神が現われますのでしようか。われわれはこのことのみが、日夜気にかかつてなりません」といつた。宣伝使は答えていう。
「この世界は誠の神さまがお造りあそばしたのである。そうして人間は、御用を務めるように神さまがお造りになつたのである。神は人間を生宮としてこれに降り、立派な世を開こうと日夜焦慮しておられます。あなた方御一同の肉体もまた、尊き神さまの霊魂と肉とを分け与えられて造られた人間である。そうして神さまの生宮となつて働くべきけつこうな万物の霊長である。しかるに人間の本分を忘れて、ただ飲み食いや色の道ばかりに耽溺するのは、神さまにたいしてもつとも深き罪悪である。
世の中には善の神もあれば悪の神もある。そうして善の神一人にたいし、悪の神は九十九人の割合にいまの世はなつてしまつている。そこで神さまは、この世界を清め、神の生宮たる人間の身魂を清めて、立派な神国を建てんとおぼしめし、宣伝使を四方に派遣されているのである」と大略を物語つた。
「われわれは、どうしても合点のいかぬことがたくさんあります。それであなたにおたずねしたいと思つて呼びとめました。
いつたい、今日の人間は広い山や野を独占し、そうしてわれわれの働くところもなく、また働かしてもくれない。なにほど働くに追いつく貧乏神なしといつても、働く種がなければ、われわれは乞食でもするより仕方がないではありませんか。もちろんわれわれは、遊んで楽に飲んだり食つたりぜいたくをしようとは思いません。ただ働いて、親子夫婦がその日をどうなりと暮らすことができれば、それで満足するのであります。しかるに、われわれはこの広い天が下に脚踏み立てる場所も持つておりません。
みな強い者、大きな者に独占されて働くに処なく、親子兄弟はちりぢりばらばらになり、天が下を苦しみながら漂浪つつ、わずかにその日を暮らしております。こんな世の中を立て替えて、お日さまのお照らしのように、万遍なくわれわれにも天地の恵みを身に潤うことができるならば、こんなありがたいことはなかろうと思います。そうしてそのけつこうな神さまはいつお現われになりましようか」と首を傾け、宣伝使の顔をのぞきこむ。宣伝使は両眼に涙をたたえながら、
「空翔つ鳥も、野辺に咲く花も、みな神さまの厚き恵みをうけて、完全に生活をつづけております。いわんや万物の霊長たり、神の生宮たる人間においておやです。神さまのお守りが、どうしてないということがありましようか。ただ何事も神さまの御心にまかせ、今日ただいまをありがたい、ありがたいで暮らしていけは、神さまは花咲く春に会わしてくださいます。
世の中は暗夜ばかりではない。暗夜があつてもいつかは夜があける。冷たい雪の降る冬があれば、またのどかな花咲き鳥歌う春がでてくるように、きつと苦しみの後には楽しみがあります。
あなた方も、働く場所がないからといつて、そこら中を漂浪いなさるのもむりではありませんが、この世界はみな神さまのものである。人間のものは足の裏についている土埃一つだもありません。いまの人間は広大な山野を独占して、自分のもののように思つているが、命数つきて幽界にいたるときは、いかなる巨万の財宝も妻子も眷族もいつさいを捨てて、ただひとりとぼとぼと行かねはならぬのである。ただ自分の連れとなるものは、深い罪の重荷はかりであります。あなた方も、神を信じ、誠一つの心をもつて、この広い天地の間に活動なさい。きつと神さまが幸いを与えてくださいます。
この地の上の形ある宝は亡ぶる宝であります。水に流され、火に焼かれ、虫に食われ、錆び朽ちるはかない宝であります。それよりも人間は、永遠無窮に朽ちず、壊れず、焼けず、亡びぬ誠という一つの宝を、神の御国に積むことを務めねばなりませぬ」と諄々として五大教の教理を説き勧めた。
(「瑞祥新聞」昭和8年2月l日)