かしこくも神素盞嗚尊は千座の置戸を負わせたまいて、八雲立出雲の国は肥の川上に八岐大蛇を退治したまい、手撫槌、足撫槌の末女奇稲田姫の危難を救い、翁媼より姫を貰いうけ、須賀の宮居を造営したまいて
八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を
と三十一文字を読みたまいしをもつて、和歌の濫觴となし尊のまたの御名を月読命と尊称したてまつる。尊は高天原の変より八百万の神々たちに神退われ、普天率土を、愛世愛民の大志をおこして遍歴したまいし、神代の大英雄にましませり。
ここに明光社は、尊の御名にちなめる雑誌「月明」を発刊し、もつて敷島の大道すなわち惟神の妙地を開拓すべく生まれいでたるものなれば、大にしては愛神愛民の基礎となり、小にしては修身斉家の基本ともなるべく、一大抱負をもつて、まさに呱々の声をあぐることとなりました。
さて神国の名を負える瑞穂国の人々は、すべての煩雑を厭い、閑静を愛する心つよく、世俗にまじわりて世事に狂奔するのかたわら、風雅の別天地に遊ばんとする国民性がある。その別天地の事物にはおのずから雅致があり風趣があつて、その趣味また一言うべからざるものがある。ゆえに世事のかたわら、その趣味に生くるものを風流ととなえ韻事と称して、文人墨客らは詩歌ともなし、書画ともなし、調度器物ともなしてその情を慰むるものである。かの桜狩りに一夜を花下に宿らんとし、紅葉見に鹿のの遠音にあこがれ、沢の蛍にわが魂のたぐえるかと思い、秋野の虫の声を聞きてはわれを呼ぶかと思うなどは、風流思想の充たざるかぎり、その境地には入りがたきものである。しかしながらわが国人にはこの趣味を愛する人おおく、古人においてもつとも濃厚であつた。かの右衛門尉実頼は住吉神社に参籠して、五年の生命を縮めてもかまわないから、一首の歌を詠みえさしめたまえといつて祈つたくらである。
そもそも敷島の道とは惟神の道であり、惟神の道は至誠である。誠あれば人をも感ぜしめ、鬼神をも泣かしめ、神明の心を歓ばしめたてまつり、天下を和めまつるという。しからば惟神の道に生い立ちたるわが国人としては、必然和歌は詠まねはならぬものである。
歌なるものはじつに霊妙なるもので、治国平天下の大道も、歌の力によつて遂げえらるるものである。葛城王は采女の歌によつて国司の罪を宥し、菅原道真は小大進の歌によつて濡衣を脱いだ。紫式部は歌によつて節操をまつとうし和泉式部は歌によつて赤縄の絶えんとせしをつなぎとめた。「風吹かば沖津白浪立田山夜半にや君はひとり行くらむ」の歌は覆水を盆に復えさしめた。「我れもしか泣きてぞ」の歌は、後妻を追わしめ、大隅の郡司の歌は国司の笞をなげうたしめ、安倍貞任の歌は八幡太郎の矢を止めしめた。安倍仲麿の歌は唐人を泣かしめ、能因法師の歌は三嶋明神の神感をえ、小野小町の歌は旱天に雨を降らした例しもある。
かくのごとく歌は霊にして妙なるものである。されば神代の昔より人の世の今日にいたるまで、高下貧富の区別なく、斯道を尊まぬものはないのである。げにや斯の道は、皇国の御手振りの産なる道にして、賢しらたちたる外国などとは様の変われること雲泥の差にして、清き、赤き、直き、正しき誠の心も歌によつてあらわれ、人の心の善不善、人の情けの有り無しも歌によつて知悉しえらるるがゆえに、古人も、人は歌を詠むべきものなりとして、歌の徳をかぞえその詠みようや心の掟など、かれこれ沙汰したる書物もあらわれたのである。かの為相卿は歌の霊妙尊貴なる心を評して
これのみぞ人の国より伝はらで神代をうけし敷島の道
とまで詠みたる例しがあるのである。
かくのごとく歌の尊貴にして惟神の薀奥ともいうべき大切なる国人の手振りなれば、神務多端のおりをもかえりみず、神業の一部として、ここに「月明」誌を発刊し斯道奨励のために資せんとするのであります。惟神霊幸倍坐世
(創刊の辞、「月明」 昭和2年2月)