現代の人々は、わが身の失敗をことごとく棚の上に祭りこみ、惟神だとか、社会組織の欠陥そのもののしからしむる自然の結果なり、と思うなぞの詭弁に依帰してしまつて、自己の責任については少しも反省し、自覚するものがない。宗教家のなかには、「御国をきたらせたまえ」とか「神国成就、五六七神政」とかいうことを、地上に立派な形体完備せる天国を立てることだとのみ考えているものが多い。そして地上の天国は、各人がまず自己の霊魂をみがき、水晶の魂に立て替えるということを知らぬものがたくさんにある。各自の霊魂中に天国を建てるのは、天国の住民としてはずかしからぬ、清き正しき雄々しき人間ばかりとならねば、地上に立派な霊体一致の完全な天国は樹立しないのである。
ああされど一方より考うれは、これまた神界の御経綸の一端とも考えられるのである。暗黒もまた、清明光輝に向かうの経路である。ひな鳥に歌をおしえるには、暗き箱のなかに入れておき、外面より声の美しき親鳥の歌う声を聞かしめると同様に、一時、大本の経綸も、ひな鳥を暗き箱に入れて外より親鳥の美しき声を聞かしめる大神の御仕組かとも思われぬこともないのである。
ゆえに吾人は、大逆境におちいつて暗黒のなかにある思いをするとき、かならず前途の光明をみとめうるのは、まつたく神の尊き御仁慈であると思う。いかなる苦痛も困窮も、勇んで神明の聖慮仁恵の鞭として甘受するときは、神霊ここに活機臨々としてわれにきたり、苦痛、困窮も、かえつて神の恩寵となつてしまうのである。たとえば籠のなかに入れられている鳥でも、平気でうたつている鳥はもはや捕われているのではない。のんきに天国楽園に春を迎えたようなものである。
これに反して、天地を自由にコウ翔する百鳥も日々の餌食に苦しみ、かつ敵の襲来にたいして寸時も油断することができないのは、籠の鳥の人に飼われて、食を求むるの心労なく、敵の襲来に備うる苦心なきほ、苦中楽あり楽中苦ありという、苦楽不二の真理である。牢獄の囚人の苦痛に比して、自由人のかえつてこれに数倍せる苦痛あるも、みな執着心の強きによるのである。名誉に、財産に、地位、情欲等に執着して、修羅の争闘に、日夜しのぎをけずる人間の境遇も、神の公平なる眼よりみたまえばじつに憐れなものである。神諭にも「人は心の持ち様一つで、其の日から何んな苦しいことでも、喜び勇んで暮される……と示されたのは、じつに至言であると思う。
(先づ自覚せよ、「瑞祥新聞」大正14年9月1日)