いつの世にも、政治上、経済上、社会上、各人種の間に闘争と焦慮と苦悶とは、地上いたるところに行なわれている。ことに宗教の間には、とくにはなはだしき闘争が継続されてきたようである。宗教の世界連合も人類の宗教的同盟も、その名のみは立派に存立するけれども、その実際の活動にいたつては容易に行なわれていない。
往昔、宗教といえばたいへんな勢力で、国家のいつさいを挙げてその所説を実践せんとしたものだが、近代の宗教は、いずれも形骸ばかりがいたずらに存するのみで、なんの役にも立たないのみか、かえつて社会に害毒を流す傾向がたくさんにあるようだ。現今、既成宗教の力というものは、数千年の惰力によつて虫の息で動いているほか、なんらの新しき生命の萌芽も見いだすことはできない。そしてその惰力は人心を邪悪の方面に導くのみで、天国的信仰の萌芽の発達を妨害する有害物となつている。仏教、キリスト教その他の宗教もみな同一状態にあるごとく感ぜらるるのだ。
ゆえにかかる既成宗教は一日も早く改善するか、さもなくばのこらず崩壊せしめ、宗教本来の生命をかがやかし、平和のため安心立命のため、既成宗教の殻をぬいだ新宗教を樹立せなければ、とうてい今日の乱れきつた人心を救うことはできないと思う。各宗教家が時代の推移に眼をさまし、キリスト教は仏教の意義と相通じ、仏教はキリスト教の教義と一致する点に気がつき、衆生済度の精神がたがいに相映写し、信真と愛善の本義をさとり、世界同胞の真意義が了解されなくては、もはや宗教はだめである。
この真諦が宗教家に真に理解されたならば、ここにはじめて形相の上にも、闘争や、苦悶や嫉視が止んで、たがいにその精神の実現につとむることになつてくる。これさえできれば、今日の経済上、政治上、人種上の争闘も、ひつきよう無意義のものだということが分明になる。どうしてもここまで漕ぎつけねは、社会の真実の霊的、知的進歩は期せられない。社会いつさいの争闘は、すべて真の宗教によつてのみ解決せらるるものである。
(「瑞祥新聞」大正14年10月1日)