つまずく石も縁の端しということわざがあるが、まったくそのとおりであって、敵となり味方となり、友となり仇となるも、とにかく、幾十万年か、かぎりなく永劫より永劫につづく時の流れのなかに、同じ時代において生をこの世にうけ、また世界十七億の人口のなかにあって、同じ国に生まれるということさえも、一方ならぬ因縁であるのに、朝夕顔を合わせ、同じ竈の飯を食うというのは、そこに深い深い因縁があるからである。
たとえ同じ時代に生まれ合わせておっても、一度も顔を合わせることなくして死にゆく人が、そも幾億万あるかわからない。これによってこれをみれば、ほんの汽車のゆきずりに一瞥を与え合う人たちだって、深い因縁をもつ身魂である。因縁なくしてめったにそうした機会にあうものではない。これをおもえば、人々はその因縁を尊重して周囲の人と仲良く暮らさねばならぬ。いわんや、ふりわけ髪の昔なじみはけっして忘れえぬもの、私は境遇がいかに変化をきたそうとも、永久にこれらの人々を愛してゆきたいのである。それが人情ではないか。
(躓く石、「神の国」昭和5年5月)