現代人は、霊界いつさいの事物と人間いつさいの事物との間に、一種の相応のあることを知らず、また相応のなんたるを知るものがない。かかる無知の原因には種々あれども、その主なるものは、「我」と世間とに執着して、みずから霊界、ことに天界より遠ざかれるによるものである。
何事をもさしおきてわれと世間とを愛するものは、ただ外的感覚を喜ばし、自己の所欲を遂げしむるところの世間的事物にのみ留意して、かつてそのほかをかえりみず、すなわち内的感覚を楽しまし、心霊を喜ばしむるところの霊的事物にいたつては、彼らの関心せざるところである。彼らがこれをしりぞくる口実にいわく、「霊的事物はあまり高きに過ぎて思想の対境となるあたわず」云々。
されど古の宗教家また信者は、これにたいして、相応に関する知識をもつていつさい知識中のもつとも重要なるものとなし、これによりて智慧と証覚をえたものである。ゆえに優れたる教えの信者は、いずれも天界との交通の途を開きて相応の理を知得し、天人の知識をえたるものである。すなわち天的人間であつた。
太古の人民は、相応の理にもとづいて思索すること、なお天人のごとくであつた。これゆえ古古の人は天人と相語るをえたり。またしばしば主神をも見るをえて、その教えを直接にうけたものはたくさんにある。ところが、現代の宗教家にいたつては、この智識まつたく絶滅し、相応の理のなんたるかを知るものほ、宗教各団体を通じて一人もないといつてもよいくらいである。相応のなんたるかを知らずして、霊界について明白なる知識を有するをえない。
かく霊界の事物に無知なる人間は、また霊界より自然界にする内流の何物たるを知ることはできない。また霊的事物の自然的事物にたいする関係をすら知ることができない。また霊魂と称する人間の心霊が、その身体におよぼすところの活動や、死後における人間の情態に関して、毫も明白なる思想を有することあたわず、いわんやいまなにをか相応といい、またいかなるものを相応となすかさえ、これに答うる者はあるまいと思う。遺憾のきわみである。
(「瑞祥新開」大正11年6月)