口はばの広いことをいつて、自己の存在を確認して、黄金と権力と体力さえあつたら、神なんか信仰しなくても、いかなることでもできると自負しているのが現代の人間の大部分である。それが一つ体躯に微異をきたすと、たちまち別人のように小さい心もちになる。別条のない身体の壮健なときは、天下に行なわれざるものなしと慢心しているが、一朝四肢の自由を失つて臥床の身となり、あまつさえ生命の綱が細つてゆくときに、人間はなにを考えるだろうか。ただただ生きよう生きようという生の執着と欲求よりほかに何物もないのである。
こんなときになつて、浮世のいつさいがありがたみを加えてくる。信仰心がおこり、神仏に依頼する気になるのが人間のつねである。発熱はなはだしくたえがたきときに、氷屋の丁稚の親切みがおぼえられ、食道に普通の糧がとおらぬときに、牛乳屋の恩恵が悟れる。夜ふけて交通機関の絶えたときには、電車のありがたみがしみじみと感ぜられる。かわいい児に旅をさせという諺も、こんなところから生まれてきた言葉であろう。馬の生き眼を抜く慌惨な旅へでて腕一本で生きてゆく、そうしたときに親というもののありがたみがわかつてくるもので、世の中の悲喜はこもごも、みな人間の心もちを浄化するものである。自然も環境もみな神であるという心もちになつてくる。
吾人の生存には変化の体験ほど尊いものはない。百の説法万の教訓よりも、ただ一つの体験の方が、よほどその心魂を浄化するうえにおいては尊い。ゆえにせつかくの体験を反古にしてはならぬ。
(無題、『東北日記』 二の巻 昭和3年8月5日)