智慧暗く、力弱き人間は、どうしても偉大なる神の救いを求めねば、とうてい自力もつて、わが身の犯せる身魂の罪をつぐなうことは不可能である。ゆえに人はただ神を信じ、神にしたがい、なるべく善を行ない悪をしりぞけ、もって天地経綸の司宰者たるべき本分をつくさねばならぬのである。西哲の言にいう、「神はみずから助くるものを助く」と。しかり、されどそは絶対のものにあらず。人間たるもの、とうてい永遠に身魂の幸福を生みだすことは不可能である。人は一つの善事をなさんとすれば、かならずやそれに倍するの悪事を、しらずしらずなしつつあるものである。ゆえに人生には、絶対的の善もなければ、また絶対的の悪もない。善中悪あり、悪中善あり、水中火あり、火中水あり、陰中陽あり、陽中陰あり、陰陽善悪相混じ美醜明暗相交じって、宇宙のいつさいは完成するものである。ゆえにある一派の宗教の唱うるごとき、善悪の真の区別は、人間はおろか、神といえども、これを正確に判別したまうことはできないのである。
いかんとなれば、神は万物を造りたまうに際し、霊力体の三大元をもってこれを創造したまう。霊とは善にして体とは悪なり。しかして霊体より発生する力はこれ善悪混交なり。これを宇宙の力といい、または神力と称し、神の威徳という。ゆえに善悪不二にして、美醜一如たるは宇宙の真相である。重くにごれるものは地となり、軽く清きものは天となる。しかるに大空のみにては、いっさいの万物発育するの場所なく、また大地のみにては、清新の空気を吸収することあたわず、天地合体、陰陽相和して、宇宙いっさいは永遠に保持さるるのである。また善悪は時、所、位によりて、善も悪となり、悪もまた善となることがある。じつに善悪の標準は、複雑にして、容易に人心小智の判別すべきかぎりではない。ゆえに善悪の審判は、宇宙の大元霊たる大神のみ、その権限を有したまい、吾人はすべての善悪を審判するの資格は絶対になきものである。
みだりに人を審判(さば)くは、大神の職権を侵すものにして、僭越のかぎりといわねばならぬ。ただただ人はわが身の悪を改め、善に遷ることのみを考え、けっして他人の裁きをなすベき資格はなきものなることを考えねばならぬのである。われを愛するもの、かならずしも善人にあらず、われを苦しむるもの、かならずしも悪人ならずとせば、ただただ吾人は、善悪愛憎のほかに超然として、惟神の道を遵奉するよりほかはないのである。
(「瑞祥新聞」大正14年5月)