政教一如が皇道日本の真面目
社会が混濁したときに個人の修養が叫ばれ、世の中が乱れてくると、修徳の人が重んぜらるるものである。古書や古人の言を引用するまでもない。この世を悲観する際に宗教が生まれるのだ。現界の不満にたいして幽界幽事の願求がおこるのである。真実の生活には顕幽の隔別はない。顕幽の別れめがじつは人間堕落の第一歩なのである。現代の教育、宗教の説くところは、ことごとく個人修養を勧めるところの堕落した教義である。大風呂へぶつこみ、桃源を実現する用意がない。換言すれば、政事を忘却しているところの閑人間の仕事である。国家治安の大本を忘却して、どうして万民和楽の天下が生まれようか。
上に政道が乱れて、下に修徳を強いらるるより悲惨な世の中はない。吾人は個人修養を断じて否定するものではないが、政道正しきに復して、万民おのずから修養の要を感ぜないような、真に幸福にして平和なる世の中にすることこそ、政治家たり、教育家たり、宗教家たるものの責務であると信ずる。
本来、教育即政道、政道即宗教であつてこそ、現土にはじめて天国がきたり、娑婆即寂光の浄土が実現するのだ。これこそ政教一致が皇国治要の大本であるゆえんなのである。
政治家が教えを忘れて、天下の動乱ここに兆し、教育家、宗教家が政を知らずして、人民の苦難がそこに発生する。皇道政治はかならず教育を兼ね、皇道教育は政治を離れて存在しない。
今日の宗教家、教育家、政治家にまつりごとの真諦を体得している者の少ないのが、この非常時の真相である。いまや「政教刷新」の声が貴衆両院からあげられてきたことはよろこばしい現象である。わが国は信仰即政事、政事即道徳の国であつて、この三者は個々に論ずべきものでなく、別々に行なうべきものでなく、渾然一体、融合不離の関係にあるものである。
かくして政治家も、教育家も、宗教家も、その他上下ことごとくがこの皇道精神に覚醒することによつてこそ、はじめて御稜威輝く光明の日本国を建設することができるのである。