皇道大本の筆先にあるとおり、世の中が至粋至純であれば神さまの教えはいらぬのであります。
世が乱れて人々がたがいに
悪み、妬み、
謗りなどする世の中となっているからして、なかにも日本人はそんな癖が多く、いわゆる島国根性であって、外国からも探偵気分が多いといわれる
状態で、他人の非をさがすことを痛快事と考えるような癖があるのである。他人の悪いと思うところは直接その人に忠告をし、けっして他人の非をいわぬにかぎるのであります。すなわち善言美詞にかぎるのである。さればとて巧言令色とは違うのである。善言美辞は愛に発するものでなければならぬ。愛は善のため、愛のための愛であって、けっして自己のための愛であってはならぬ。戦争にたって国のためになったというが、それもやはり自己愛の拡張にすぎぬのであって、もひとつ大きい「世界愛」でなければならぬのであります。人類人主義、万有愛の神愛でなければならぬ。
(宗教無用論、「瑞祥新聞」昭和10年5月1日)
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善言美詞は対者によることであって、車夫が同士にたいしては車夫の言葉、ちょっと聞いてはなはだ悪言暴語のような言葉でも、それが善言美詞であるし、地位名望のある人たちの間には、それそうとうの美しい言葉がかわされねばならぬ。
「まだ生きてけつかるのか、米が高くて困るぞ、よう」というと、「やあ
手前もまだ生きていたのか」。これは私が荷車をひいていた時代に、これらの社会においてたがいにとりかわさるる言葉であった。労働者たちの間の善言美詞である。こうした
暴い言葉の底にひそむ、友を思うの情はたがいにじゅうぶんに相通じ了解されるのである。もしこれらの人が切り口上や、ていねいな言葉を使いだしたら敵意をふくんでいるのである。舌のもとには心ありとの神歌のごとく、要は心の問題で、敬愛の心からでる言葉は、表現はまずくとも、善言美辞となってあらわるるもので、この心なくて美辞を使うと、それは
阿諛諂佞となり、
欺言、
詐語となる。
(善言美詞は対者による、「神の国」昭和5年1月)