死後高天原に安住せんとして、霊的生涯を送るということは、非常に難事と信ずるものがある。世を捨て、その身肉に属せるいわゆる情欲なるものを、いつさい脱離せなくてはならないからだという人がある。かくのごとき考えの人は、主として富貴より生まれる世間的事物をしりぞけ、神、仏、救い、永逮の生命ということに関して、たえず敬虔な想念を凝らし、祈願をはげみ、教典を読誦して功徳をつみ、世を捨て肉を離れて、霊に住するものと思つているのである。しかるに天国は、かくのごとくにして上りうるものではない。世を捨て、霊に住み、肉に離れようと努むるものは、かえつて一種悲哀の生涯を修得し、高天原の歓楽を摂受することはとうていできるものでない。なんとなれば、人は各自の生涯が、死後にもなお留存するものなるがゆえである。
高天原に上りて歓楽の生涯を永遠にうけんと思わば、現世において世間的の業務を執り、その職掌をつくし、道徳的民文的生涯をおくり、かくして後、はじめて霊的生涯をうけねはならぬのである。これを外にして霊的生涯をなし、その心霊をして、高天原に上るの準備を完うしうべき途はないのである。
内的生涯を清くおくると同時に外的生涯をいとなまないものは、砂上の楼閣のごときものである。あるいはしだいに陥没し、あるいは壁落ち、床破れ、崩壊し、顛覆するごときものである。
(人間の情動的生涯は死後に継続す 「瑞祥新聞」大正13年7月25日)