明光社あたりのおきゃん宗匠たちには、少しばかりお気にさわるかしらねども、今日は少し、憎まれ口をたたいてみよう。
女というものは、昔はほとんど人間あつかいをうけていなかったものだ。女は三界に家なしだとか、子なき女は去るベし、淫乱なれば去るべし、嫉妬あれば去るベし、多弁なれば去るベし、夜遊びする女は去るべし、夫の意に従わざるものは去るべしなぞと、貝原益軒とか越権とかいう『女大学』の著者から、非常に虐待されてきたものだ。女は五障三従とかいって仏教からもはなはだしき侮蔑をうけて、人間らしきあつかいをされなかった。蒙古なぞへ行ってみると、女は戸籍にさえも載せてくれないという情けないありさまである。どこの霊山へも霊地へも入ることを許されなかった。女子と小人は養いがたしといって、天下の男子からもてあまされたらしい。
ところが世の中は女と酒と金だ、女なくては生きていられないようなこともいっている。粋の利いたか利かぬかしらぬが、女ならでは世のあけぬ国と女を讃美した野呂作もあった。智者も学者も労働者も野楽良男も、みなそれぞれ女から生まれたのだ。これを思えば女というものは偉大なものである。キリストも釈迦も孔子もマホメットも、みな女から生まれない者はないのだ。
青春の血をそそる生娘の、明眸皓歯や露のしたたるような黒い瞳、白い豊艶なる面、紅い唇なぞはたしかに悩殺的魅力をもっている。恋慕、憧憬、愛着の極、男子はそれにひきつけられ、魂を抜かれてしまう。そしてその美人にふり捨てられ、えっぱっぱの肱鉄の乱射をうけた時は、失望落胆して狂気するものさえできる。あるいはその間の曲折、入水となり、ブランコとなり、鉄砲ばらとなり、鉄道枕となり、切腹となり、怨恨となり、失恋、煩悶、嫉拓、殺人となり、神経衰弱となり、五尺余の男子をして骨抜きとなし、蛸となし盲目となし、愴惶たらしめ、地位も名誉も台なしとして、社会より葬り去らしむる魔力をもっているのは女である。尽未来永劫、女というものの正体および心理は疑問とされている。百論千議、四千年来各種各様の研究をかさねられているのだ。ああ、この疑問のかぎは永久に、男子たるもののにぎることのできないものだろうか。
婦人問題は世の進運、人類の進展にともなって、いよいよますます繁くなってきた。この時期にさいして新しい女、古い女、職業の女、細君としての女、独身女、貞節な女、淫奔な女、あらゆる方面の女の抱擁している秘密の宝庫のかぎを奪いとり、ざっくばらんにさらけだして、真に赤裸々な告白と真実の消息を書いてみよう。現ナマ女や女天下をくわえて、現代女の覚醒と天下の男子の参考にともならばと、ここに婦人にたいして苦情あらあらかくのごとく、よって如件。
時に天女どいい女神といい、時に弁財天といい今小町といい、美人といい、傾城の魔神といい、生命の原動力といって、天下幾千万の男子から敬愛され、恋慕され、憧憬されるかと思えば、たちまちいくたの迫害と誘惑にあう。因果なものは真に古今を通じて美人の上にある。夜叉とのろわれ、あるいは愚物とあざけられ、弱者と軽侮され、うぶなものともてあそばれ、あばずれ女、すれっからし、おきゃんなぞと爪はじきさるる女の立場も、ずいぶん気の毒である。
天下は人類一般の共有物で、世界に二十億の人類があれば、その半分は女人である。男一人に女一人は天の配剤、その妙をえている。陰陽つねに相合致して、天下はまったく泰平無事なるべきはずだが、それは理屈であって、現実はつねに波瀾曲折たえまなく、その闘争の間にはかならず女というものが介在している。現実と理性、理性と感情、それらのものがこんがらがって、ついに波瀾を醸成するものである。すべて女は理性よりも感情に強いもので、笑うかと思えばすぐに泣きだし、泣くかと思えばのろい、のろうかと思えばあざけり、あざけるかと思えば恋をし、恋をするかと安心していれば、すぐに少しのことから離れるものだ。そして感情に支配さるるのは女の美点であって、また欠点である。
女というものは、すべてが過ぎこし苦労のすきなものとみえて、身の上ぱなしをしては過去を追想し、ただわけもなしに泣きたがる。一方の相手の女もまたそれに共鳴して泣くものである。女の泣くのはまた一種の示威運動であって、いかなる硬骨漢でも、女の涙には弱らせられ腸をえぐられる。ゆえに女の涙は砲弾も同様で、恐ろしい魔力をもっている。嬉しくても泣き、悲しい時にはなおさら泣き、快感をおぼえた時はいっそうによく泣き、自己の主張の貫徹せざる時にも泣き、社会の同情を失った時にも泣く。それが女としての唯一の回復の策であり武器である。ゆえに女は涙によって一大勢力をうる。自己の意見が通ったときは、また歓びのあまりに泣くという不可思議な心理をもっているものである。松風、月影、清砂、波濤なぞを眺め、その美と風光に打たれて詩として泣くがごときは、明光社美人宗匠をのぞくのほか、ほとんど稀有のことである。女は芝居を見ても小説を読んでも、責められてもしかられても泣き、話のうまい人の啌に釣りこまれても泣く。そして泣いてる時の女の心理状態は、もっとも危険な状態にあるものである。都会の裏面に住んでいる女の、肉で飯を食うという輩は、こういう機会につけこんで誘惑するのである。さて女の泣くということは、くだらぬ文句を百万陀羅ならベたてるよりも、よほど愛らしく美しいが、ぞれも美点であり欠点である。
女の特質は毀誉褒貶に動かされやすい。そして一面からいうと、きわめてあきらめやすい傾きがある。ゆえにこの特質は、かけひきをして成功せしむるには策のえたるものである。男子の感情をそそりたてるごときはもっとも得意とする。女は男子の忍ぶべからざる場合も、容易に忍びうる強者である。笑顔を売り虚礼を売り、しかもそれを真実らしく平気で見せている芸娼妓のごときは、とうてい男子のおよばざるところである。バーの女や雑貨店の女は、笑顔を売り虚礼を売り、もって男子をあざむきおぴきだし、芸妓や娼妓は肉を売って男子を悩殺し、ことに売春婦が鬼没自由、天下を濶歩して、男子の春情をそそりつつ海外までも遠征するがごときは、とても男子のおよばざるところである。
男子に見こみがないと思ったら、愛児をのこし良人を捨て、さっさと尻をからげて逃げだし、好きな男に食いついて平然たる度胸ときては、女もまた強者である。未練の刃だの、家出の捜索だの、復縁の交渉だの、裁判沙汰なぞは女の方からめったにやらない。その大多数は男子からである。真実熱烈に惚れきっていた男でも、情死を迫られるとすぐに逃げだしてしまう。そのここに至るまで心の底を男子に露わさず、その間よく瞳をもって男子をあこがれしめるだけの技倆をもっている点が偉いものである。ときどき貞操に関する損害賠償問題がおこるが、なかには至極ごもっともだと感ぜらるるものもあれど、またその価値を疑うべきものも多々ある。それだから失恋したり、自殺したり、神経衰弱にかかるような女はきわめてまれである。家産をかたむけてまでみつぐ根くらべときては、男子の方がはるかに弱い。しかるに女というものの勝利はほんの一時的であって、彼が処世取り引きはあたかも香具師的で、正々堂々と陣頭にたっては闘わない。けっして勝敗の決までは戦わない。ゆえに女というものの内容がさっぱりわからないのだ。戦われに利ありと見れば進撃しきたり、不利なりと見るやただちに講和を申し込む代物だ。その手段はすべて不得要領に終わり、その方策は千変万化であるが、しかし絶対に流水にしたがうというがごとき不見識な行動はとらない。そして女は自分の欠点と弱点とを包みかくすことに努力するゆえに、眼前のかけひきは巧妙である。外形美によって衒うことがじょうずで、虚栄心が非常に強い。虚栄の皮を一枚脱れば、すぐに醜い内容が暴露する。内容の充実につとむることをしないで、いつまでも虚飾で包まんとするから、女は人間としての向上ができない。虚栄ばかりが増長して勢力を唱えている間は、人間としてはだめだ。女としてのいちばん美しいものは愛児に乳房をふくませたときである。
(無題、『東北日記』三の巻 昭和3年8月15日)