現代青年男女の主唱する恋愛神聖論なるものは、いたって浅薄なもののようである。美人だ、ナイスだ、キャラモンだ、色男だ、曲線美だ、肉体美だ、おしりが細い、乳房がつんもりしている、肌が艶滑だ、色が白い、明眸皓歯だ、髪がからすの濡羽色だ、花顔柳腰だ、新月の眉だなぞいうところから出発しているが、それがただちにあつらえどおりに成立するものではない。そんなことを標準として芽ばえるものは、その大部分は性欲のみを中心として出発する轟動にすぎない。ゆえにそれらを中心としなせる結婚は永続性がない。ある一点に欠陥を生じた場合には、たちまち破壊されるのがつねである。
だから恋愛は人格と人格との結合でなくては嘘である。人格と人格を基礎として築かれた結婚生活には永続性があり、未来性がある。男女がお互いの人格を見いだすまでにはそうとうの時間がいる。色眼の使い方で恋愛が発生して、結婚が自由だなぞとは、あまりにも自分というものにたいして忠実味を欠いでいる。四聞の光線のいかんによって、秋波と藪睨みとの識別をあやまることさえあるではないか。
要するに恋愛発生の第一要件は、相手の人格を見いだすことに、まずもってつとめねばならぬ。それを根底にした結婚でなくては、真個の恋愛の意義をなさない。そして人格どは真に人間らしい性格をそなえたことである。
(恋愛に就て、『東北日記』三の巻 昭和3年8月15日)