「神さまのご存在をはっきり示していただいたら、すぐさま大本さまのご信仰に入る」という求道者が多いというのか。そういう人にこの一枝の花を見せてあげるがよい。そしてここに神ざまがおいでになると知らしてあげるがよい。その妙なる色、香、そもそもだれがこんな微妙なるものをつくりだしたのか。同じ庭園に植え、同じ肥料をほどこしても、種が異なれば色も形も香もみなちがうではないか。その種というものをまただれがつくりいでたのか。人間? 鳥? 獣? 虫? いな、いな、いな、雨か風か、太陽の光か、月の精か、いな、いな、いな、これらのものはみな、それを育てあげるに必要なる機関であるには相違ないが、種の創造主ではない。もし地中に埋ずめたものが種でなくて石であったならばどうであろう。太陽の光も、恵みの雨もなんらの力もないではないか。種の創造主、それが神さまでなくてだれなのだ。それは大自然の力だというのか、その大自然のカこそは神さまのご別名なのだ。神ざまの御心は人間のような小さいものでない。小さい容器にいれてないから、人間にわかりそうなことはないが、心をひそめて活気凛々たる大自然を凝視する時、ただ一本の草にも、花にも、微妙なる神の御心が覚りえらるるはずである。それでもわからぬというのなら、ずいぶん頭の悪い人間である。
(神の御存在を疑う人に、「神の国」昭和2年7月)