祈りは天帝にのみすべきものである。他の神さまには礼拝するのである。私はそのつもりで沢山の神様に礼拝する、そはあたかも、人々に挨拶すると同様の意味においてである。誠の神さまはただ一柱しかおわしまさぬ、他はみなエンゼルである。
(『神の国』大正15年2月)
世界万物を創り、またわれらを生みたまいし神に近づかずして、かえつて道なきの親に仕うるものは、神に仇するものである。神に仇せしものはかならず、滅びゆかざるをえない。
道なきの親に仕えるということは、偶像に仕えることである。真の親に仕えることをせずして、神の仇たる邪神に仕うるものは、とりもなおさず神に仇するものである。
善なりと知りて行わないものは、神の仇である。神を祀りまたは祈ることは善なりと知りて行なわざるものは、すなわち悪である。悪事をせぬから神を祀らずともよしというものは、誇り驕ぶれる慢心の罪を犯せるものである。
(斯うしたことは神に仇する者、「瑞祥新聞」昭和6年4月)