いまだ異性の香を知らず、汚されたことのない女を処女という。女の一生を通じて一番におもしろい時代で、理想と希望と空想に宮み、なんとはなしに嬉しくて、おもしろくて、おかしい時代である。乳房がふくらんで、顔に艶がでて、全体の皮膚があぶらぎってなめらかになり、熱烈にかわいがられ、痛烈に憧憬されるようになってくる。そしてその周囲は誘惑の雲につつまれ、ひかるるままに誘われやすく、四辺の境遇もっとも危険な時期である。
娘の二八、二九のころは、山野の積雪消え、水はとけ、草木の若芽は緑に萌えいで、春風春水一時にきたるの概がある。筋肉と皮膚は一種美妙な発達をなして、異性の触覚の念をそそりたてる。色と艶と曲線美をいちじるしく帯びてくる。またその異様なる瞳が、異性にたいしてある心を動かさんとする時には、一種別様の輝きと活動とをおこしてくる。心の宮殿に飼われている愛の雛鳥は、この眼の窓から出入りをするのである。こうした時の女は、自己の貴重なるある局所に、異性のふれることを怖るるようになる。それが漸次に年齢をくわうるにしたがい、いかにして異性との接触抱擁を要求するにいたるか。一朝青春の血が体内にみなぎりそむるや、その若き胸に一つのパッションを生ずる。これを満足せしめんがために、異性にたいして色情の表現をこころみるのである。ここにいたって、恋愛という問題が生まれてくるのである。この発情した時、異性からの逍遥に一種の恐怖心がおこるとともに、「怖いもの見たさ」の好奇心に駆られて、これに応ずるようになる。
女として性欲の能動的にもっともさかんなるは、二十七、八歳から三十七、八歳のいわゆる中年期である。いかに強く独身主義を主張するものも、よく一生を通じてその主張を貫くことができようか。中年期の離婚が、往々にして夫の生殖器不健全という点から出発するというが、統計上そうとうの数を占むるというがごとき、俗にいう、二十後家は立っても三十後家は立たぬという諺は、よくその間の消息を物語っている。
(無題、『東北日記』四の巻 昭和3年9月9日)