神とは隠身(かくりみ)という意味であつて、人間の肉眼でみられない存在、物質の尺度ではかることのできない世界をいうのである。ところが世間には、よく余に向かつて、「神をこの目で見せてもらいたい、そしたら神の存在を信じよう」という人がある。
だいたい「信」という字は人偏に言と書いてあつて、真人の言を尊重し、聖人の言にしたがう心である。ところが今の世の人々は、「目に物を見せられ」なければ、人の言を信ずることのできない強情な心になつているが、その心はすでに「信」ではないということに気づかねばならぬ。
それで、余はつねにかかる人々につぎのように答えている。
「人々は、くじらが大きな動物だというが、太平洋の真つただなかには、脚の長さが二里もある大きないかが住んでいる。しかしてその脚にふれて、ときどき船が沈没することがあるが、人々はそれがいかのせいだとは気がつかない。またシベリアの広野には、雪や氷に埋れて二万年も三万年も眠りつづけている巨獣がいる。しかしてなにも知らない人間たちは、その上へ鉄道をつけたり要塞を築いたりして気張つているが、その巨獣が一度目をさましてあくびをしたら、どんな珍事がおきるか想像だにできない。いまかかる動物の頭をここに持つてきて君に見せたところが、はたして君にはそれがわかるだろうか。しかして神の御姿はもつともつと大きなものだよ」と。
肉眼や尺度で神を知ろうとすることは、群盲象評以上の愚かなことである。だが、「信」のある人、聖人の言を信じ聖典の教えを尊ぶ人には、野に咲いている一片の草花にも、空を飛んでいる一羽の鳥にも、神の力と愛をありがたく感得することができるものである。
神の存在を否定する人々に、むつかしい理屈は禁物である。野に咲いている百合の花を見せて、もしその人が「美しい」といつたら、それでよいのだ。その人は十分に神の存在を知つている人である。すなわち、その人は理屈で神を否定しながら直感で神の存在を知り、肉眼で神を見ないが、すでに魂のどん底で神のささやきを感得しているのである。しかして前にいつたごとく、神は理屈で論ずべきものでなく、肉眼で見るべきものでなく、直感で知り心のささやきで感ずべき存在なのであるから、神を否定している科学者や理論家たちも、結局、科学や理論では神はわからないということを証明しているにすぎないのである。
昔の人間は直感すなわち、いわゆる第六感が鋭かつた。だが今日の科学は最低の直観を基礎として立てられたものであるがために、だんだんとその第六感をもにぶらしめてきたのである。それは人類にとつてたいへんな損失であつて、どうしても今後の学問は科学的に人間の智慧を向上せしめるとともに、神より与えられた人間の直感力をいよいよ発達せしめて、両々相まつて人類の福祉に貢献せしめるよう努力せしめねばならぬ。
たとえは近代の建築家が、ただただ機械の精巧のみにたよらずして、わが国伝来の蟇目の故実を修得して、その両者を併用するようになつた暁は、おそらく全世界を驚倒せしむべき建築界の革命をもたらすことができるであろう。その他すべての方面にわたつて機械の能力とともに、わが日本人独特の直感力をますます発揮したときこそ、はじめて独自の超人的科学文明を、日本から全人類に教示することができるのである。
日本の科学者たちは、一日もはやく欧米の糟粕にあまんぜず、伝統的大精神にめざめて一大奮起すべき日にいたつていることに気がつかねはならぬ。これがすなわち吾人の称する皇道科学なのである。
(「人類愛善新聞」 昭和10年8月23日)