女から惚れられぬ男、男から惚れられぬ女、いずれもそういう人々には、なんの仕事もできるものではない。男からも、女からも、老人からも、子供からも惚れられるような人間であって、はじめて天下にわが志すところのものを、なし遂げえらるるのである。
「今ごろの男は女からすこし秋波を送れば、すぐでれでれしてくる」というのか。王仁がいうているのは、そうした技巧を弄してしいて惹きつけるものの謂いではない。男が惚れるような男、女が惚れるような女のことである。「桃李物いわず、下おのずから径をなすしというような惚れられ方でなくてはだめである。惚れられる秘訣? 愛善が徹底すればよいのである。自分のことよりも相手の幸福を思ってやる心だ。愛するもののためには自分の幸福を犠牲にするという心だ。
王仁ははじめてあった人でも、話を聞いているうちにその人の将来まで心配してやる心になる。王仁はいつも他人のことばかり思って、自分のことはちっとも思っていない。だからまた他人が王仁のことを思い、王仁を愛してくれる。王仁はまた、わが愛人に他の愛人ができた場合にも、そのことにたいしてきわめて寛大である。ほんとうに人を愛するならば、愛するものが幸福にあることを、心のそこから祈るのが真の愛である。他にはしったからというて嫉み妬むのならば、それは自己の愛である。相手を愛していたのではなくて、自分の愛欲を満足さすために愛人を犠牲にしていたにすぎない。
王仁の目から見れば、近代の恋愛は真の恋愛ではない、偏狭なる自己愛のかたまりだ。こういうかたくなな心で、どうして愛が徹底するものか。惚れられる秘訣、ただ相手の幸福をのみ祈る愛善の心だ。そしてまた、その実際化だ。
(「神の国」昭和7年9月)