惟神の道を宣布しつつある吾人をしていわしむれば、人間のこの地上に発生せしときにおいて、すでに、宗教なるものは生まれているのである。
人間には智・情・意の三霊が存する以上、その内分的活動はたえず宗教心となって現わるべきものである。神が人間に愛善の心、信真の心を与えたまうたのは、現実界のみのためでなく、神霊界に永遠無窮に生活せしめんがための御経綸である。ゆえに宗教は現代の政治や倫埋や哲学の範囲内におさまるような、そんな浮薄軽佻なものではなく、人間の真生命の源泉であって、人間は宗教によって安息し、立命し、活躍しうるものである。いかなる無宗教家をもって自任する者といえども、すわ一大事という場合にならばかならず合掌し、天の一方を拝して、その苦難をまぬかれんとするにいたるものである。国家も、国境も、人種も、政治も、倫理も超越して、真の生命に活きんとするのは、宗教をおいて天下一なにものかあらんやである。
現代の宗教は政治の一部としてとりあつかわれ、天来の権威も、信用も全然地をはらい、わずかにその余喘を保っているにすぎない。実際のことをいえば、今日の世の中には宗教らしき宗教は皆無である。遠くの昔に宗教の生霊は死滅しおわって、その残骸がのこっているだけである。有害無益の厄介物となってしまったのである。ゆえに惟神の聖教を説くところの宗教は、俗悪きわまる政治の一部として、俗吏などより監督せられなくてはならなくなったのである。
吾人の唱うる宗教なるものは、天地惟神の聖意のままに、愛善と信真の発達に向かって進むのであるから、すべてに超然として立っているのである。政治や倫理などは、じつは宗教の一部分の活用にすぎないのである。ああ、真の宗教の光は東方より輝きはじめたり。すべての人間は本然の誠、すなわち惟神の大精神にたちかえり、現界における最善をつくし、しかして後、天国永遠の大生命にいり、太元神の大意志にかないまつり、人としての本分をつくし、容易に会いがたき人生をして、酔生夢死に終わらしむることなきをこいねがわねばならぬのである。
要するに宗教なるものは、政治でも、哲学でも、倫理でもなく、人間の真性の発露であって、大根本の意識であり、人生本来の聖糧である。ゆえに天下一人として宗教心のないものはないはずだ。無宗教者とみずからいっている人々にも、形骸的の宗教はないとしても、心の奥には歴然として宗教心がかがやいているものである。人間本来の精神に吻合するものでなくては、宗教の名を付するは少しばかり僭越である。ゆえにいわく、現代には一つも宗教なしと。
(現代には一つも宗教無し、「神の国」大正14年10月)