皇国は太古より言霊の天照国といい、また言霊の幸わう国、言霊の助くる国と称し、皇国に生まれた人々は、いずれも七十五声の正音を自由自在に応用し、その言葉はきれいで朗らかであります。外国人の声音は数が少なくて濁り、鼻にかかり、ひねくれ、獣声に近似し、不正不規律でありまして、日本人にくらべては天地霄壌の差があります。
すべて宇宙にはアオウエイの五大父音がありまして、それがたえまなく鳴り鳴りて鳴り止まず、造化に任じているのであります。もし神霊学をきわめ、言霊の妙用をさとりえましたならば、宇宙の五大父音は明瞭に聞くことができます。
諺にいう大声俚耳に入らずで、われわれの肉耳にははいりません。もしその一端を知ろうとすれば、両の耳をふさぐとかえつて聞くことができます。そもそも神は万物の霊であり、言霊であり、道でありまして、宇宙間に充ち満てるのでみち(道)とも称えています。人は天地経綸の司宰者であるがゆえに、言霊の妙用を解しこれを実地に応用したならば、天地万物を自在に動かすことができ、地震、風雨、雷霆を駆使するのは易々たる業であります。
ああ、しかれども言霊の助け幸わい天照る日本に生まれながら、天下修斎の天職を有した日本の国民一人として、これをわきまえていないのは、じつに暗黒の世となげかざるをえません。
聖書の『ヨハネ伝』首章に、皇国言霊の消息をもらしております。「太初に道あり、道は神と偕にあり、道はすなわち神なり、この道は太初に神と偕にありき、万の物これによりて造らる。造られたるものに一としてこれによらで造られざるはなし。これに生あり、この生は人の光なり、光は暗に照り、暗はこれをサトらざりき」と。この一章をみても、いかに言霊学の至貴至重にして、万物の根本たることをうかがいうるのであります。
本会(人類愛善会)の発祥地である丹波国は上古田庭の国と誌し、しかして田庭の言霊はじつに円満清朗であつて、中世丹波と改め、また旦波と称していました。かかる国名も丹波、丹後、但馬に分割され、丹波はタンバと言霊が跳ね濁り、丹後はタンゴと跳ね濁り、但馬はタジマと濁つてから、国魂の活用もしたがつて濁り乱れ、人心もまたこれに準じて濁り、山野草木の末にいたるまで皇祖ご遺訓の御国霊を乱すにいたりましたことは、かえすがえすも遺憾であります。
言霊を案ずれは、田庭の国には、じつに一種特別の神縁あることがうかがい知られます。
(「人類愛善新聞」昭和6年9月23日)