恋というのは子が親を慕うごとき、または夫婦がたがいに慕いあうごとき情動をいうのであって、愛とは親が子を愛するがごとき、人類がたがいに相愛するがごとき、情動の謂いである。信者が神を愛するということはない。神さまを恋い慕うのである。神さまのほうからは、これを愛したまうのである。ゆえに信仰は恋愛の心というのである。
恋愛となるとまったく違う。善悪、正邪、美醜などを超越しての絶対境である。おたがいがまったくの無条件で恋しあい、愛しあうので、義理も人情も、利害得失も、なにもかも忘れはてた境地である。だから恋愛は神聖であるといいうるのである。いまの若い人たちが、顔が美しいとか、技倆が優秀であるとかいう条件のもとに惚れ合うておいて、神聖なる恋愛だなどというのは、恋愛を冒潰するものである。そんなものは神聖でもなんでもない、人に見せて誇らんがために、若い美貌の妻をめとりて熱愛する夫にいたっては、まったく外分にのみ生きるものであって下劣なものである。
真の恋愛には美もなく、醜もなく、年齢もなく、利害得失もなく、世間体もなく、義理もなく、人情もなく、道徳もなく、善もなく、悪もなく、親もなく子もない。まったく天消地滅の境地である。人として真の恋愛を味わいうるものが、はたして幾人あるであろうか。どんな熱烈な恋といえどもたいがいは、相対的なものである。神聖よばわりは片腹いたい。現代の不良青年などが、恋愛神聖をさけんでかれこれと異性をもとめて蠢動するのは、恋愛でもなんでもない、ただ情欲の奴隷である。
(恋愛と、恋と、愛、「神の国」大正14年9月8日)