そもそも霊界物語は、神代における神々の神示によって著されたものであり、学者の歴史でも歴史家の歴史でもない。世の腐儒者や気魄なき歴史家やデモ宗教家の所説は、ひとつとして宇宙開闢の真相を真に理解したものはない。
今日の新聞においても、記者の眼識の程度によって見解が異なり矛盾と誤謬が多きことは、一昨年の大本事件の記事が無根と虚構によって充たされ、真相を報道した新聞がなかったことによって悟ることができる。
また前後二十有余年間、大本に日々出入りし親しく教祖に接し教示を賜り、その御行動を実地目撃しながら、未だに教祖の御心意がどこにあるかを知らざる者ばかりである。
瑞月が教祖と共に大神の道に舎身的奉仕の誠を尽くしたるを見て、これを何か神慮に背反せる行為のごとくみなし、長年排斥と侮蔑と圧迫を試みながら、自分らの行動は全部神に叶えるものと信じ、妄動を続行している。
一昨冬に初めて本書の口述を始めたときも、重要な位置にある役員の一部は、これをもって取るに足らない悪言となし、極力妨害を加えようとした者さえあったくらいである。神意の存するところを知らず、自分の暗迷な眼識によって身魂相応の解釈を試みようとするから、このようなことになる。
現代人は癲狂痴呆の度が強くなっているのだから、瑞月が神示に由れるこの物語に対して、我関せずの態度に出たり、また反対の挙に出るものあるべきは、当然の帰結としてすでに覚悟の前である。
本書は現代の学者、宗教家、歴史家の思潮を憂慮せる熱誠慷慨の余声として、はたまた神明の摂理の一部として編述したもので、今日の有識者の所説に対して一歩も譲らないことを信ずるのである。
先入思想を全然放擲して従順に神の御声に耳を傾け眼を注ぐときは、遠き神代の世界の史実は言うもさらなり、中古近古の歴史の真相も幾分か捕捉することができるだろうと信じる。
虚空の外に心身をおいて神代の史実と神の意志とを顕彰し、一瞬に転回して宇宙の真相をしめそうと、神示のまにまに物語を現したその苦心は、言うに言われない。
大神の神格を精霊に充たし予言者に来らしめて、万民救治のために明示された神書に対し、ある大本幹部役員の口からも軽侮嘲笑の言が出たことは、ちょっと面喰わざるを得なかった。
しかしながら、天下に一人でも具眼の者が現れて、ひとたび心を潜めてこの物語の真面目に臨めば、必ずや一節ごとに深遠微妙の真理を蔵し、五味の調度よろしき弥勒胎蔵の神意と神智や、苦集滅道の本義を発見し、肯定し、帰依するに至るであろう。
本物語の目的は、霊界現界の消息を明らかにし、諸人が死後の覚悟を定め、永久に天国浄土の悦楽に入るべく、仁慈の神の御賜物として人間一般に与えられたものである。現界に用いては、大は治国平天下の道から、小は吾人の修身斉家の基本となるべき神書である。
昨大正十一年の秋、瑞月は筆録者をはじめ、天声社における編集者は、この物語に対してどこまでの信仰を有するかを試みるため、神示にしたがって、万々一本書の中において教典として採用すべき金玉の文字あらば抜粋してこれを別冊となし、宣伝用に宛て、熱誠な宣伝使や信者に分かつべし、と言った。
全巻みな神の目より見れば金玉の文字、人間の作物ではない。それを真面目に取捨選択し、各自数か月熱心調査の結果として余に示した。神明に伺い見たところ、神は大いに笑わせ給い、人間の盲目と無鉄砲には呆れたり、との御言葉であった。
これを思えば人間は自我心を出さず、何事も聖慮に素直に従順に仕えるより外に道はないと思う。この神書をもって、普通の稗史小説または単なる滑稽物語および心学道話の一分と見ているくらいの程度では、到底この書の眼目点をつかむことはできない。