教祖の筆先とは、霊眼に映った現在過去未来や神々の言霊を断片的に筆写したものである。
演劇にたとえてみれば、各役者のせりふを抜書きした、暗記用の覚書のようなものである。だから、神劇全体を目撃したものでなければ、その真意を評することはできないのである。
それぞれのせりふを集めて一つの芝居を仕組むのは、緯の役なのである。
霊界物語の役目とは、太古の神々の活動を始め、現在過去未来の神界の活劇を、断片的に示すことなのである。だから、教祖の筆先を緯役が勝手に組み替えた、というのは大なる誤解である。
むしろ、筆先の断片を抜き出して勝手に解釈し、真の神の教えを軽信した結果、昨春のような事件を引き起こしたのである。
物語は歴史のみでなく、教訓でもあり、筆先の解説でもあり、確言書でもあり、また大神劇の脚本でもあるのである。この物語に拠らなければ、神界の御経綸・御意思は到底分かるものではないのである。
物語は、数十万年前の霊界の事を示しているので、多々不思議な点がある。故に不審な点も多々あると思うが、筆先と霊界物語は経緯不離の関係にあることを考えて欲しい。
今まで緯役が発表した筆先の解釈は、緯役自身が神界の実地に触れて根拠のある点のみを、発表しているのである。それが理解できないのは、神劇を目撃していないからである。
それゆえに、霊界物語(=神劇)を発表することにしたのである。
筆先に一言一句も変えてはならない、とあるが、緯役にはよく調べて出してくれ、とも言っている。「変えてはならない」とは、緯役以外の者に対しての言葉であることを、混同してはならない。