夕暮れ近くなったころ、前方に横たわる沼にさえぎられたところで、駒が突然一歩も動かなくなった。朝香比女はその様子を怪しんだが、ともかく休みを取って様子を見ようと、萱草の芝生に降り立った。
比女は萱草にどっかと腰を下ろして様子を見守っていたが、果たして駒は次第に後じさりし、驚きの声を上げて凶事を知らせるようなそぶりをした。
どうやら曲津神が罠を張って待ち構えていると察した比女は、火打ち石を取り出し、かちかちと打ち出だせば、枯草に燃え移って風に乗って広がり、沼の岸辺まで届いて止まった。
すると、辺りを包んでいた深い霧が晴れ、空も晴れ晴れとして月が地上に光を落とし始めた。これは、八十曲津神が比女の真火の功に傷つき追いやられた結果であった。
一度は退いた曲津神たちであったが、今度は比女を沼に迷い込ませて仇を取ろうと、第二の罠をはって待ち受けていた。
朝香比女は心落ち着き、広く広がる沼の岸辺に駆け寄って、波間に浮かぶ月影を眺めながら今の事件を述懐する歌を歌った。
ふと見ると不思議なことに、小石一つない沼の水際に、長方形の巌が横たわっていた。比女は言霊にて、主の神の恵みにより休み所となる巌を賜ったと歌い、まだ若い巌なので、舟にして沼を渡ろう、と歌った。
するとまた不思議なことに、比女は、巌がまるで柔らかい粘土でもあるかのように、中をえぐって舟の形を作り、天の数歌・言霊歌を歌った。たちまち巌舟は木の舟に変じ、自ずからするすると水際にすべり出た。
比女は駒と共に舟に乗り込み、沼の果ての岸まで渡り来た。そして、この舟は千引きの巌となって、永遠にこの岸辺にあるように、と言霊歌を歌うと、舟は元のような巨巌となって、水際に屹立した。
この巌を御舟巌という。そのうちに東雲の空が次第に明らみ、日が雲を押し分けて昇り来たり、沼の面をくまなく照らし渡った。