大正十三年新暦二月四日は、大本の年中行事の節分祭に相当した。中国暦でいうと、正月元日に当たる。そして本年は甲子に当たり、中国暦によると、十二万年に一度循環するという稀有の日柄であった。甲子は音が「更始」に通じている。
二月五日の早朝より元朝祭を行い、各国各地より集まってきた役員信徒は、日出雄を囲んで夜のふけるまで神界の経綸談を聞いていた。やがて皆おいおい帰国の途につき、広い教主殿も洪水の引いた後のように閑寂の気が漂っていた。
午後八時ごろ、教主殿の奥の間、ランプの光がかすかな一室に、日出雄は真澄別、隆光彦、唐国別の三人と共に海外宣伝の評議を行っていた。
まず、真澄別が朝鮮普天教との提携や、北京行きの結果を総括した。朝鮮には唯夫別と共に普天教教主を訪ね、日出雄教主の来鮮と教主会談を要請された。唯夫別は普天教の役員各として残留することとなった。
また隆光彦はシナの道院との連携と、中国各地での道院訪問の様子を述べた。
日出雄は、現在は監察の身ながら一度シナ、朝鮮を旅行してその道の人々と語り合い、世界宗教統一の第一歩を踏み出してみたいと、意を現した。その際、真澄別、隆光彦両人の同道を乞うた。
日出雄は唐国別からは、奉天の水也商会という武器屋を通じたシナ事情を聞いた。すると、河南督軍の軍事顧問を務めている岡崎鉄首という者が、張作霖とのつながりを利用して、蒙古の大荒野を開拓して日本の大植民地を作りたい、そのためには宗教で人心を収攬する策が一番だが、大本の日出雄聖師にその役をお願いできないか、と打診してきた話を語りだした。
そして、盧占魁という馬賊の大巨頭が内外蒙古に勢力を保っているので、聖師と引き合わせたい、という計画を打ち明けた。