日出雄は軍の編成が終わった後、野山に兎狩りを催し、野生のにらやにんにくを採集しなど、愉快に索倫の日を送っていた。
すべての制度がせせこましかった国から、十六倍の面積を有するという蒙古へ来て、たくさんの兵士や畜類を相手に自由自在に勝手なことをして飛び回るのは、生まれて五十四年来なかった愉快さ、のんきさだった。
五月一日、盧占魁がやってきて、大庫倫に進むには、興安嶺付近に駐屯する赤軍と一戦交えなければならず、熱、察、綏三区域にある吾が参加軍が到達するには、遠すぎる。そこで、本年はこの区域で冬ごもりをし、完全な兵備を整えてから、来週を待って大庫倫入りをなすようにする考えである、と諮ってきた。
また、張作霖からは、兵備が整わないうちは軍資金、武器を送ることができないので、我慢してくれ、という意味の伝言が来た。
この地はいく抱えもあるような楊、柳、楡の大木が山野に繁茂し、トール河の清流はソーダを含んでゆるやかに流れ、天然の恩恵は無限に遺棄されている宝庫である。
盧占魁によれば、ジンギスカンが蒙古の原野に兵を上げてから六百六十六年となり、頭字の三つそろったのを見れば、いよいよ本年は三六の年だと言って、勇んでいた。
一日、野にて萩原や坂本が原野に放った火が、大風に吹かれてあっという間に身辺に広がってきた。日出雄は日本武尊が焼津で、神剣で草を払って賊軍の火計を追い返したという故事を思い出し、身辺の草を薙ぐと向かい火をつけて、天の数歌を奏上した。不思議にもにわかに風向きが変わり、危うく難を逃れたのである。