四月二十四日午後、ようやく五台の台車に武器が満載されてやってきた。それにつれて仮司令部の中も活気付き、兵士たちの士気も上がってきた。日本人側もようやく安堵し愁眉を開いた。
奥地は難所が多いために荷物を軽くしていくことになった。日出雄も霊界物語や支那服・日本服は洮南に送り返し、ラマの法衣のみを着ていくことになった。また日出雄と真澄別は宗教家として武器は携帯しなかった。
あけて四月二十六日、公爺府を出発した。日出雄は蒙古救援軍の総督太上将として索倫山に出発することとなったのである。
公爺府を出て八十支里、見渡す限り目も届かない大原野に、風景よき四方の岩山、柳や楡の古木が密生している。トール側の清流を隔てて岩山に金鉱を掘った後があり、その横にラマ教の金廟の壁が白く輝いている。珍しい鳥がさえずり、牛馬、山羊の群れが愉快そうに遊んでいる。
日出雄はかつて霊界において見聞した第三天国の光景にそっくりだといって喜んだ。
公爺府より西北の日出雄が通過した地点は、たくさんの木材が天然のままに遺棄されてあり、水田に適当な肥沃な野が、手持ち無沙汰に際限もなく横たわっている。
日出雄と真澄別は、こんなところを開墾して穀類を植え付け、鉄路を敷いて樹木をきり出し鉱物を採掘したならば、実に大なる国家の富源を得られるであろうと話しつつ、進んでいった。
四月二十八日早朝、ヘルンウルホの宿営を出発し、下木局子まで進むことになった。午前九時二十分、無事に下木局子に安着した。盧占魁は司令部に一行を案内した。