霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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十和田湖(とわだこ)神秘(しんぴ)

インフォメーション
鏡:月鏡 題名:十和田湖の神秘 よみ: 著者:出口王仁三郎
神の国掲載号:1930(昭和5)年11月号 八幡書店版:480頁 愛善世界社版: 著作集: 第五版:277頁 第三版:277頁 全集: 初版:237頁
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2024-11-11 12:01:01 OBC :kg461
001 東洋(とうやう)日本国(にほんこく)(いた)(ところ)山紫水明(さんしすゐめい)(てん)(おい)西洋(せいやう)瑞西(スイス)(とも)世界(せかい)双壁(さうへき)推称(すゐしよう)されて()る。002日本(にほん)古来(こらい)東海(とうかい)蓬莱嶋(ほうらいじま)(とな)へられた(だけ)あつて、003国中(こくちう)(いた)(ところ)名山(めいざん)があり、004幽谷(いうこく)があり、005大湖(たいこ)があり、006大飛瀑(だいひばく)があり、007(じつ)世界(せかい)公園(こうゑん)()(そむ)かない風光(ふうくわう)がある。008(なか)湖水(こすゐ)として(もつと)広大(くわうだい)(もつと)名高(なだか)きものは近江(あふみ)琵琶湖(びはこ)009言霊学上(げんれいがくじやう)010(あめ)真奈井(まなゐ)」があり近江(あふみ)八景(はつけい)といつて支那(しな)瀟湘(せうしやう)八景(はつけい)「瀟湘八景」(しょうしょうはっけい)…中国湖南省の洞庭湖(どうていこ)付近にある八ケ所の景勝地。にならつた名勝(めいしよう)がある。011(あし)()012中禅寺湖(ちうぜんじこ)013猪苗代湖(いなはしろこ)014支笏湖(ししやくこ)015洞爺湖(どうやこ)016阿寒湖(あかんこ)017十和田湖(とわだこ)などがある、018(いづ)れも文人(ぶんじん)墨客(ぼくかく)(よろこ)ばれて()るものである。019(なか)にも風景(ふうけい)絶佳(ぜつか)にして(ふか)神秘(しんぴ)伝説(でんせつ)(いう)するものは十和田湖(とわだこ)(みぎ)()づるものは()いであらう。020自分(じぶん)今度(こんど)東北(とうほく)地方(ちはう)宣伝(せんでん)(たび)(つづ)け、021(その)途中(とちう)青森(あをもり)県下(けんか)其他(そのた)近県(きんけん)宣信徒(せんしんと)案内(あんない)されて、022日本(にほん)唯一(ゆゐいつ)紫明境(しめいきやう)なる十和田(とわだ)勝景(しようけい)(せつ)する(こと)()ると(とも)に、023神界(しんかい)御経綸(ごけいりん)深遠(しんゑん)微妙(びめう)にして人心(じんしん)凡智(ぼんち)窺知(きち)()ざる神秘(しんぴ)(さと)(こと)()たのである。024()十和田湖(とわだこ)位置(ゐち)は、025裏日本(うらにほん)表日本(おもてにほん)とを縦断(じうだん)する馬背(ばはい)(ごと)中央(ちうおう)山脈(さんみやく)(あひだ)介在(かいざい)して、026北方(ほくぱう)には八甲田山(はつかふださん)027磐木山(いはぎやま)など巍々乎(ぎぎこ)として(そび)()ち、028南方(なんぱう)(はるか)雲表(うんぺう)より鳥海山(てうかいざん)029岩手山(いはてざん)()高嶺(かうれい)下瞰(かかん)してゐるのである。030十和田湖(とわだこ)水面(すいめん)(たか)さは海抜(かいばつ)一千二百(いつせんにひやく)(しやく)にして、031その周囲(しうゐ)山々(やまやま)(これ)より(やく)二千(にせん)(しやく)以上(いじやう)高山(かうざん)(もつ)環繞(くわんげう)せられ、032湖面(こめん)(ほと)んど円形(ゑんけい)にして牛角形(ぎうかくけい)馬蹄形(ばていけい)とを()せる二大(にだい)半嶋(はんたう)湖心(こしん)(むか)つて(やく)一里(いちり)(ばか)突出(とつしゆつ)し、033御倉山(みくらやま)御中山(みまかやま)など神代(かみよ)神座(しんざ)神名(しんめい)(ちな)んだ奇勝(きしよう)絶景(ぜつけい)(もつ)(かたち)(づく)られて()る。034湖中(こちう)岩壁(がんぺき)や、035岩岬(がんこう)や、036嶋嶼(たうしよ)などの風致(ふうち)(じつ)日本(にほん)八景(はつけい)随一(ずゐいつ)()(そむ)かない(こと)(うなづ)かれるのである。037湖中(こちう)風景(ふうけい)絶妙(ぜつめう)なる(こと)は、038一々(いちいち)(ここ)(しる)すまでもなく東北(とうほく)日記(につき)名所(めいしよ)名所(めいしよ)()んでおいたから、039(ここ)には(これ)省略(しやうりやく)して十和田湖(とわだこ)神秘(しんぴ)(うつ)ることに()ようと(おも)ふ。
040 十和田湖(とわだこ)伝説(でんせつ)(かく)方面(はうめん)点在(てんざい)して(すこぶ)範囲(はんゐ)(ひろ)いが、041自分(じぶん)(すべ)ての伝説(でんせつ)(かか)はらないで、042神界(しんかい)秘庫(ひこ)(ひら)いて(ここ)忌憚(きたん)なく発表(はつぺう)する(こと)とする。043(さて)十和田(とわだ)地名(ちめい)(つい)ては十湾田(とわだ)044十曲田(とわだ)などの文字(もじ)(あて)はめて()るが、045アイヌ()のトーワタラ(岩間(いはま)(みづうみ))ハツタラ((ふち)())が神秘的(しんぴてき)伝説中(でんせつちう)主要(しゆえう)人物(じんぶつ)046十和田湖(とわだこ)(つく)つたといふ八郎(はちらう)別名(べつめい)047八太郎(はちたらう)048八郎太郎(はちらうたらう)049(はち)太郎(たらう))が伝説(でんせつ)中心(ちうしん)となつて()る。050(つぎ)開創(かいさう)鎮座(ちんざ)せし藤原(ふじはら)男装坊(なんさうばう)南祖(なんそ)051南宗(なんそう)052南僧(なんそう)053南曽(なんそう)054南蔵(なんざう)(とう)種々(しゆじゆ)あるが、055今日(こんにち)普通(ふつう)(もち)ゐられて()文字(もじ)南祖(なんそ)である。056(しか)王仁(おに)伝説(でんせつ)真相(しんさう)から考察(かうさつ)して男装坊(なんさうばう)採用(さいよう)し、057(この)神秘(しんぴ)()(こと)にする。
058 (むかし)秋田県(あきたけん)赤吉(とつこ)()(ところ)大日(だいにち)別当(べつたう)了観(れうくわん)()有徳(うとく)()()んで()たが、059たまたま心中(しんちう)邪念(じやねん)(きざ)した(とき)北沼(きたぬま)()(ぬま)(とし)(ふる)くから()んで()大蛇(をろち)(ぬし)了観(れうくわん)姿(すがた)となつて(つま)(もと)へそつと(かよ)つた。060()大蛇(をろち)(ぬし)といふのは神代(かみよ)(むかし)神素盞嗚尊(かんすさのをのみこと)伯耆大山(はうきだいせん)(すなは)()川上山(かはかみやま)(おい)八岐(やまた)大蛇(をろち)退治(たいぢ)され、061大黒主(おほくろぬし)鬼雲別(おにくもわけ)以下(いか)平定(へいてい)されたその(とき)八岐(やまた)大蛇(をろち)霊魂(れいこん)()つて(ふたた)大蛇(をろち)となり、062北沼(きたぬま)(なが)(ひそ)んでゐたものであつた。063()もなく了観(れうくわん)(つま)妊娠(にんしん)し、064やがて(たま)(ごと)男子(だんし)()(おと)したが、065(あたか)出産(しゆつさん)当日(たうじつ)朝来(てうらい)天地(てんち)晦冥(くわいめい)大暴風雨(だいばうふうう)(おこ)(きた)りて大日堂(だいにちだう)(やぶ)れん(ばか)りなりしといふ。066了観(れうくわん)はその(おそ)ろしさに妻子(さいし)()れて鹿角(かつぬ)()げその男子(だんし)久内(きうない)名付(なづ)けて(いつく)しみ(そだ)てた。067その()三代目(さんだいめ)久内(きうない)小豆沢(あづきざは)大日堂(だいにちだう)建立(こんりふ)したるも身魂(しんこん)蛇性(じやせい)のため天日(てんじつ)(あふ)()ること(あた)はず、068別当(べつたう)になれない(ところ)から草木村(くさきむら)といふ(ところ)民家(みんか)代々(だいだい)久内(きうない)名告(なの)つて子孫(しそん)(くら)して()た、069()てその九代目(きうだいめ)(あた)久内(きうない)()八郎(はちらう)神秘(しんぴ)伝説(でんせつ)主人公(しゆじんこう)である。
070 日本一(にほんいち)勝地(しようち)何処(いづこ)(ひと)()はば
071  十和田(とわだ)(うみ)()れは(こた)へむ。
072 神国(しんこく)八景(はつけい)(いち)()されたる
073  十和田湖岸(とわだこがん)絶妙(ぜつめう)なるかな。
074 水面(すいめん)海抜(かいばつ)一千二百(いつせんにひやく)(しやく)
075  十和田(とわだ)(みづうみ)風致(ふうち)(たへ)なり。
076 磐木山(いはぎやま)八甲田山(はつかふださん)(めぐ)らして
077  神秘(しんぴ)(ふか)十和田(とわだ)(うみ)かな。
078 我国(わがくに)勝地(しようち)数多(あまた)ありながら
079  十和田(とわだ)景色(けしき)にまさるものなし。
080 御倉山(みくらやま)御中山(みまかやま)など神秘的(しんぴてき)
081  半嶋(はんたう)(うか)十和田(とわだ)(うみ)かな。
082 (みづ)(あを)(やま)(また)(あを)(うみ)(ひろ)
083  水底(みなそこ)(ふか)十和田(とわだ)(しよう)かな。
084 男装坊(なんさうばう)創開(さうかい)したる十和田湖(とわだこ)
085  百景(ひやくけい)(いづ)れも神秘的(しんぴてき)なる。
086 八郎(はちらう)大蛇(をろち)(へん)(つく)りしと
087  ()十和田湖(とわだこ)(もも)伝説(でんせつ)
088 素盞嗚(すさのを)(かみ)言向(ことむ)(やは)したる
089  大蛇(をろち)(たま)十和田(とわだ)(ひそ)みぬ。
090 風雅(ふうが)なる(ひと)春秋(しゆんじう)(たづ)()
091  風光(ふうくわう)めづる十和田湖(とわだこ)(うる)はし。
092 了観(れうくわん)(つま)()みてし()()こそ
093  北沼(きたぬま)大蛇(をろち)(たね)なりしなり。
094 (てん)()晦瞑(くわいめい)風雨(ふうう)()(くる)
095  (なか)(うま)れし久内(きうない)(じや)()
096 九代目(きうだいめ)久内(きうない)()みし()()こそ
097  十和田(とわだ)(つく)りし八郎(はちらう)なりけり。
098 藤原(ふじはら)男装坊(なんさうばう)八郎(はちらう)
099  (あらそ)()たる十和田(とわだ)(うみ)かな。
100 瑞御魂(みづみたま)(かみ)()さしの神業(かむわざ)
101  (つか)(まつ)りし男装坊(なんさうばう)かな。
102 八郎(はちらう)()()したる男装坊(なんさうばう)
103  (なが)十和田(とわだ)(ぬし)となりける。
104 何時(いつ)()にか、105青山緑峰(せいざんろくほう)四方(よも)(かこ)まれたる清澄(せいちよう)なる一筋(ひとすぢ)清流(せいりう)(いだ)いて(ねむ)農村(のうそん)(むかし)秋田県(あきたけん)鹿角郡(かつぬぐん)(ひがし)(みなみ)山峡(さんけふ)草木(くさき)といふ(ゆめ)のやうな静寂(せいじやく)農村(のうそん)があつた。106(この)(むら)父祖(ふそ)伝来(でんらい)()んで()久内(きうない)夫婦(ふうふ)(なか)(まう)けた(をとこ)()八郎(はちらう)()づけ、107両親(りやうしん)(てふ)(はな)よと(いつく)しみ(はぐ)くむ(うち)八郎(はちらう)(はや)くも十八歳(じふはつさい)(はる)(むか)ふる(こと)となつた。108八郎(はちらう)天性(てんせい)偉丈夫(ゐぢやうぶ)で、109(はは)(はら)から出生(しゆつせい)した(とき)(すで)(すで)大人(おとな)面貌(めんばう)(そな)一人(ひとり)()(ある)きなどをしたのである。110八郎(はちらう)十八歳(じふはつさい)(はる)には身長(しんちやう)六尺(ろくしやく)(あま)つて大力(たいりき)無双(むさう)鬼神(きじん)(しの)(ごと)雄々(をを)しき若者(わかもの)であつたが(また)一面(いちめん)には(いた)つて孝心(かうしん)(ふか)村人(むらびと)より()(とな)へられて()た。111八郎(はちらう)()(まへ)強力(がうりき)資本(しほん)毎日(まいにち)深山(しんざん)()「駆」…底本では「馳」。(まは)つて(かば)(かは)()いたり、112鳥獣(てうじう)(とら)へては(いち)売捌(うりさば)()たる(かね)にて(まづ)しい老親(らうしん)(なぐさ)めつつ(ほそ)一家(いつか)生計(せいけい)(ささ)へて()たのである。113()(とき)八郎(はちらう)隣村(りんそん)なる三治(さんじ)114喜藤(きとう)といふ若者(わかもの)三人(さんにん)()れにて(とほ)(かば)皮剥(かはむ)きに出掛(でか)けた。115三人(さんにん)来満峠(きたみつたうげ)から小国山(をぐにやま)()遥々(はるばる)津久子森(つくねもり)116赤倉(あかくら)117尾国(をぐに)(みつ)つの大嶽(たいがく)(かこ)まれてゐる奥入瀬(おくいりせ)十和田(とわだ)へやつてきた、118往時(わうじ)十和田(とわだ)(みつ)つの大嶽(たいがく)(せば)められた渓谷(けいこく)(ひる)()(くら)緑樹(りよくじゆ)千古(せんこ)(いろ)をただへ()(なか)玲瓏(れいろう)たる一管(いつくわん)清流(せいりう)(なが)(みなみ)より(きた)へと()びてゐた。119三人(さんにん)漸々(やうやう)此処(ここ)辿(たど)りついたので(なが)れの(あた)りに小屋(こや)をかけ(かは)(ばん)炊事(すゐじ)引受(ひきう)けて昼夜(ちうや)(かば)(かは)()いて(はたら)(つづ)けて()た。
120 草木村(くさきむら)久内(きうない)夫婦(めをと)のその(なか)
121  大蛇(をろち)霊魂(みたま)八郎(はちらう)(うま)れし。
122 奥入瀬(おくいりせ)清流(せいりう)(わた)八郎(はちらう)
123  渓間(たにま)湖沼(こせう)(とも)()きたり。
124 孝行(かうかう)(ほま)四隣(しりん)(きこ)へたる
125  八郎(はちらう)(かば)(かは)()ぎて()く。
126 三治(さんじ)127喜藤(きとう)二人(ふたり)(とも)渓流(けいりう)
128  (わた)りて十和田(とわだ)(ちか)くに仮寝(かりね)す。
129 奥入瀬(おくいりせ)(かは)(ほと)りに小屋(こや)(つく)
130  鳥獣(てうじう)()(かば)(かは)()ぐ。
131 数日後(すうじつご)のこと、132其日(そのひ)八郎(はちらう)炊事番(すゐじばん)(あた)り、133二人(ふたり)出掛(でか)けたる(あと)にて(みづ)なりと()みおかんとて岸辺(きしべ)徐々(じよじよ)(くだ)()くに、134(きよ)(なが)れの(なか)に、135岩魚(いはな)三尾(さんびき)心地(ここち)よげに遊泳(いうえい)して()るのを()た。136八郎(はちらう)物珍(ものめづ)らしげに岩魚(いはな)()つて番小屋(ばんごや)(かへ)「帰」…底本では「皈」。つて()た、137そして三人(さんにん)一尾(いつぴき)づつ()はんと()いて(とも)二人(ふたり)(かへ)りを()つて()たが、138その(にほ)ひの(あふ)れる(ばか)りに(かんば)しいのでとても(たま)らず一寸(ちよつと)つまんで少々(せうせう)(ばか)(くち)()れた(とき)美味(うま)さ、139八郎(はちらう)(つい)自分(じぶん)(ぶん)として一尾(いつぴき)だけ()つて(しま)つた。
140 清流(せいりう)(あそ)岩魚(いはな)三尾(さんぴ)()
141  ()()()れば芳味(はうみ)(あふ)るる。
142 (かん)ばしき(にほ)ひに八郎(はちらう)たまり()
143  自分(じぶん)(ぶん)とし一尾(いつぴ)()らへり。
144 (おれ)()()んな美味(うま)いものは(くち)にした(こと)一度(いちど)()いと(かれ)はかすかに(のこ)口辺(くちべ)美味(うまさ)()ふた。145(あと)(のこ)れる二尾(にひき)岩魚(いはな)二人(ふたり)(とも)(ぶん)としてあつた。146けれども八郎(はちらう)辛抱(しんぼう)仕切(しき)れなくなつて何時(いつ)()にかとうとう(のこ)りの(ぶん)二尾(にひき)とも(たひら)げて(しま)つた。147アツ(しま)つたと(おも)つたが(あと)(まつ)りで如何(いかん)とも詮術(せんすべ)がなくなつた。148八郎(はちらう)二人(ふたり)(とも)(たい)して(なん)となく()まないやうな気持(きもち)(いだ)くのであつた。149()もなく八郎(はちらう)咽喉(のど)()きつく()うに(かは)いて()た、150(くち)から烈火(れつくわ)(ほのほ)()()つてとても依然(いぜん)として()られなく()つたので、151(かたはら)()んで()()いた(をけ)清水(せいすゐ)をゴクリゴクリと()()したが、152(また)()ぐに咽喉(のど)(かは)いて()るので一杯(いつぱい)二杯(にはい)三杯(さんぱい)四杯(しはい)()(つづ)けたが()咽喉(のど)(かは)きは()まづ(かへつ)(はげ)しくなる(ばか)りである。153アア(たま)らない、154()んで(しま)ひさうだ、155(これ)(また)(なん)とした(こと)だらうと(うめ)(なが)沢辺(さはべ)()(おり)るや(いな)や、156いきなり奔流(ほんりう)(くち)をつけた。157そして其儘(そのまま)(さは)(みづ)()きん(ばか)りに()んで()んで()(つづ)け、158恰度(ちやうど)正午(しやうご)(ごろ)から、159日没(にちぼつ)(ころ)ほひまで、160瞬間(すこし)(やす)まづ(いき)もつがず()みつづけて(かほ)()げた(とき)161清流(せいりう)(えい)じた自分(じぶん)(かほ)(なが)めて(おも)はずアツと(たふ)るる(ばか)(おどろ)きの(こゑ)()げた。162嗚呼(ああ)無惨(むざん)なるかな、163()(あし)(たる)(ごと)(ふと)り、164(まなこ)(いろ)ざし(など)(すで)()()のものでは()かつた。165(をり)から(やま)(はたら)きに()つて()二人(ふたり)(かへ)つて()て、166(この)始末(しまつ)(きも)(つぶ)(ばか)驚愕(きやうがく)して(しま)つた。167オオイ八郎(はちらう)八郎(はちらう)二人(ふたり)(こゑ)(あは)せて()べば、168その(こゑ)にハツと気付(きづ)いた八郎(はちらう)(やうや)くにして(かほ)をあげ、169(おそ)ろしい形相(ぎやうさう)二人(ふたり)(とも)をじつと(なが)めてからやがて(くち)(ひら)いた。
170 八郎(はちらう)岩魚(いはな)美味(びみ)()()れず
171  二人(ふたり)(とも)(ぶん)まで()らへり。
172 (うを)()ひし(あと)より咽喉(のど)(かは)()
173  矢庭(やには)(をけ)汲置(くみおき)(みづ)()む。
174 (をけ)(みづ)幾許(いくら)()みても()()らず
175  (きよ)渓流(ながれ)(くち)()れたり。
176 正午(しやうご)より夕刻(ゆふこく)までも(さは)(みづ)
177  ()(つづ)けたり(かは)ける八郎(はちらう)
178 渓流(けいりう)(うつ)れる(おの)れの姿(すがた)()
179  八郎(はちらう)(たふ)れん(ばか)りに(おどろ)く。
180 八郎(はちらう)姿(すがた)最早(もはや)(うつ)()
181  (もの)とも()えぬ形相(ぎやうさう)(すさ)まじ。
182 ()(あし)(たる)(ごと)くにはれ(あが)
183  ()()()られぬあはれ八郎(はちらう)
184 夕方(ゆふがた)二人(ふたり)小屋(こや)立帰(たちかへ)
185  八郎(はちらう)姿(すがた)(たま)()したり。
186 八郎(はちらう)夕刻(ゆふこく)二人(ふたり)(とも)(かへ)つたのを()少時(しばし)無言(むごん)(のち)やつと(くち)(ひら)き、187(まへ)(たち)(かへ)つて()たのかと()へば二人(ふたり)はオイ八郎(はちらう)一体(いつたい)(まへ)姿(すがた)(なん)だ。188如何(どう)して()うなつた。189浅間敷(あさまし)(こと)になつたの。190さあ住所(すみか)(かへ)らうよ、191(ふる)(ごゑ)()(しづ)めて()つた(とき)八郎(はちらう)()れあがつた()一杯(いつぱい)(なみだ)(うか)べて、192もう(おれ)はどこへも()(こと)出来(でき)ない身体(からだ)になつて(しま)つたのだ。193(なん)()因果(いんぐわ)()らぬが魔性(ましやう)になつた(おれ)寸時(すんじ)(みづ)から(はな)れられないのだ。194これから(おれ)此処(ここ)(がた)(つく)つて(ぬし)になるからお(まへ)(たち)小屋(こや)から(おれ)(かさ)()つて(いへ)(のこ)つて()られる(おや)(たち)(この)(こと)(はな)して()れろ。195アア(おや)(たち)はどんなに(なげ)かれるだらうと両眼(りやうがん)夕立(ゆふだち)(あめ)(なが)して(たん)ずる(こゑ)四囲(よも)山々(やまやま)反響(はんきやう)して(また)どうと(こだま)するのであつた。196かくては(はて)じと二人(ふたり)は、197八郎(はちらう)(おれ)たち二人(ふたり)(ここ)(なが)(わか)れをする。198八郎(はちらう)よさらばと名残(なごり)()()十和田(とわだ)()つた。199二人(ふたり)立去(たちさ)姿(すがた)()すましてから八郎(はちらう)(なほ)(みづ)()(つづ)ける(こと)三十四(さんじふよん)昼夜(ちうや)であつたが、200八郎(はちらう)姿(すがた)(はや)くも蛇身(じやしん)変化(へんくわ)し、201やがて十口(とくち)より(なが)()(さは)(せき)()めて満々(まんまん)とした一大(いちだい)碧湖(へきこ)(つく)二十余(にじふよ)(ぢやう)大蛇(をろち)となつてざんぶと(ばか)水中(すゐちう)(ふか)(しづ)んで(しま)つた。202かくして十和田湖(とわだこ)八郎(はちらう)(ぬし)として、203(とし)(うつ)(ほし)(かは)数千年(すうせんねん)星霜(せいさう)()ぎた。204永遠(ゑいゑん)静寂(せいじやく)(もつ)(ねむ)つて()一大(いちだい)碧湖(へきこ)沈黙(ちんもく)(つい)貞観(ていくわん)(ころ)となつて(やぶ)らるるに(いた)つたのである。
205 八郎(はちらう)二人(ふたり)(とも)(なみだ)もて
206  (なが)(わか)れを()げて(かな)しむ。
207 両親(りやうしん)記念(きねん)(かさ)(とも)(わた)
208  十和田(とわだ)(うみ)(ぬし)となりけり。
209 八郎(はちらう)三十四夜(さんじふよや)(みづ)()(つづ)けて
210  (つい)蛇体(じやたい)変化(へんくわ)す。
211 二十余(にじふよ)(ぢやう)大蛇(をろち)となりて八郎(はちらう)
212  十和田湖(とわだこ)(ふか)()(しづ)めたり。
213 十口(じふこう)(なが)れをせきて永久(とこしへ)
214  住所(すみか)十和田(とわだ)(うみ)(つく)れり。
215 数千年(すうせんねん)沈黙(ちんもく)(まく)(やぶ)れけり
216  貞観(ていくわん)年中(ねんちう)男装坊(なんさうばう)にて。
217 貞観(ていくわん)十三年(じふさんねん)「貞観十三年」…西暦871年。清和天皇十九年。(はる)四月(しぐわつ)218京都(きやうと)綾小路(あやこうぢ)関白(くわんぱく)として名高(なだか)い、219藤原(ふじはら)是実(これさね)(こう)讒者(ざんしや)毒舌(どくぜつ)()最愛(さいあい)妻子(さいし)(ともな)ひ、220桜花(あうくわ)(みだ)()京都(きやうと)(はる)(あと)(ひと)づても()陸奥地方(みちのく)をさして放浪(はうらう)旅行(りよかう)(つづ)けらるる(こと)となつた。221一行(いつかう)総勢(そうぜい)三十八人(さんじふはちにん)奥州路(おうしうぢ)踏破(たうは)し、222やがて気仙(きせん)(をか)辿(たど)りついて(ここ)(かり)舎殿(しやでん)造営(ざうえい)し、223暫時(ざんじ)(つか)れを(やす)められた。224()もなく是実(これさね)(こう)他界(たかい)せられ、225その嫡子(ちやくし)是行(これゆき)(こう)(だい)となるや、226元来(ぐわんらい)公家(くげ)慣習(くわんしふ)として、227()んの営業(えいげふ)()く、228貧苦(ひんく)(やうや)(せま)(きた)りたる(ため)229(いま)供人(ともびと)(ども)各自(めいめい)(げふ)(もと)めて各地(かくち)離散(りさん)してしまひ、230是行(これゆき)(こう)(やむ)()ず、231奥方(おくがた)のかよわき(あし)(いそ)がせつつ、232(かり)舎殿(しやでん)立出(たちい)で、233北方(ほくぱう)(そら)()して、234()()(たま)ひし(さま)は、235(じつ)にあはれなる次第(しだい)であつた。236()くて()(かさ)ね、237(つき)(けみ)して(さん)()(ぐん)糖部(あまべ)()かれ、238何所(どこ)適当(てきたう)なる住処(ぢゆうしよ)(もと)めんと、239彼方此方(あちらこちら)(たづ)歩行(ある)かれたが、240一望(いちばう)荒寥(くわうれう)とした北地(ほくち)(こと)とて、241人家(じんか)稀薄(きはく)()るべきものなく、242(むら)らしき(むら)()えず、243困苦(こんく)をなめ(なが)ら、244やがて馬淵川(うまぶちがは)(あた)りまでやつて()られたが(わた)るべき(はし)さへもなく、245(また)(ふね)()いので、246途方(とはう)()(なが)夫婦(ふうふ)暫時(ざんじ)河面(かめん)(なが)めて茫然(ばうぜん)たる(ばかり)であつた。247かくてはならじと二人(ふたり)勇気(ゆうき)(おこ)川添(かはぞ)ひに雑草(ざつさう)()()三里(さんり)(ばか)(のぼ)りしと(おも)ほしき(ころ)248目前(もくぜん)二三十軒(にさんじつけん)人家(じんか)()えた。249是行(これゆき)(こう)雀躍(こをどり)して、250(おく)(よろこ)べ、251人家(じんか)()へると(なぐさ)めつつやがて霊験(れいけん)観音(くわんのん)御堂(みだう)へと()かれた、252そして(その)()御堂内(みだうない)()りて(あし)(やす)(また)明日(あす)旅路(たびぢ)をつくづく(おも)(なや)みつつ、253まんじりとも出来(でき)なかつたのである。
254 その翌日(よくじつ)是行(これゆき)(こう)(しつ)這入(はい)つて()別当(べつたう)威儀(ゐぎ)(ただ)して「何処(どこ)となく(ゆか)しき御方(おんかた)()(さふらふ)も、255(いづ)れより御越(おこ)しなるや、256(かま)ひなくば大略(たいりやく)御模様(おんもやう)(はな)(くだ)され()し」と言葉(ことば)もしとやかに()ぶる(さま)は、257普通(ふつう)別当(べつたう)とは()えず、258(かなら)ずや由緒(ゆいしよ)ある(ひと)(すえ)ならんと(おも)はれた。259是行(これゆき)(こう)は、260吾等(われら)()もなき落人(おちうど)なるが、261昨夜来(さくやらい)より手厚(てあつ)御世話(おせわ)(あづか)り、262御礼(おれい)言葉(ことば)()し。263(ねが)はくは後々(のちのち)までも(わす)れぬため、264(くる)しからずば()霊験(れいけん)観音堂(くわんのんだう)由来(ゆらい)をきかせ(たま)へ」と言葉(ことば)(ひく)うして(たづ)ぬるに、265()別当(べつたう)(えり)(ただ)(なが)ら、266「さればに(さふらふ)267拙者(せつしや)藤原(ふじはら)式部(しきぶ)(まを)(もの)にて、268抑々(そもそも)(わが)祖先(そせん)藤原(ふじはら)佐富(すけとみ)治部卿(ぢぶきやう)(まを)公家(くげ)(よし)にて讒者(ざんしや)のため(みやこ)より遥々(はるばる)此処(ここ)()ち、269(しば)(いほり)(むす)びこの土地(とち)(ひら)きて()めるなり、270現在(げんざい)にては百姓(ひやくしやう)追々(おひおひ)(あい)(あつま)(かく)(ごと)く、271(ひと)つの(むら)(つく)りしものにて、272(この)観音堂(くわんのんだう)村人(むらびと)(わが)祖先(そせん)観音(くわんのん)(まつ)りたるものにして、273近郷(きんかう)産土神(うぶすながみ)にて(さふらふ)274()(また)御身(おんみ)(みやこ)よりの落人(おちうど)(よし)275何故(なぜ)斯様(かやう)なる土地(とち)へとお()(あそ)ばされしや」と(かさ)(がさ)ねの()ひに是行(これゆき)(こう)(なつか)しげに、276式部(しきぶ)(かほ)()(なが)め「あ、277()ては貴公(きこう)(わが)一族(いちぞく)なりしか、278(わが)祖先(そせん)藤原(ふじはら)(せい)279父上(ちちうへ)までは関白職(くわんぱくしよく)なりしも、280無実(むじつ)(つみ)(しづ)み、281()流人(るにん)となりたり。282只今(ただいま)(うけたま)はれば貴公(きこう)藤原(ふじはら)()く、283系図(けいづ)なきや」と()はれて式部(しきぶ)早速(さつそく)大切(たいせつ)(をさ)めてあつた(いへ)系図(けいづ)()()し、284(ひら)()るに是行(これゆき)(こう)本家(ほんけ)にて、285式部(しきぶ)末家筋(まつけすぢ)なれば、286式部(しきぶ)(おも)はず(あと)()()つて()ふには、287()ても()ても不思議(ふしぎ)御縁(ごえん)かな。288(これ)(まを)すも御先祖(ごせんぞ)御引合(おひきあは)せならむ。289(この)(うへ)此処(ここ)御住居(おすまゐ)あらば、290我等(われら)家来(けらい)同様(どうやう)にして、291御世詁(おせわ)(まを)()し」と(これ)より是行(これゆき)(こう)式部(しきぶ)兄弟(きやうだい)(ちぎり)(むす)び、292是行(これゆき)(こう)(あに)となつて、293()宗善(そうぜん)(あらた)(たま)うたのである。
294 貞観(ていくわん)(むかし)関白(くわんぱく)是実(これさね)(こう)
295  讒者(ざんしや)(ため)(みやこ)()ちます。
296 綾小路(あやこうぢ)関白(くわんぱく)として名高(なだか)かりし
297  是実(これさね)(こう)末路(まつろ)(しの)ばゆ。
298 (つま)()伴人(ともびと)三十八名(さんじふはちめい)
299  みちのく()して()()関白(くわんぱく)
300 桜花(さくらばな)(はる)名残(なごり)(みだ)()
301  (みやこ)(あと)()()くあはれさ。
302 みちのくの気仙(けせん)(をか)辿(たど)りつき
303  (かり)舎殿(しやでん)(いとな)()ませり。
304 是実(これさね)(こう)()()()をば()(たま)
305  嫡子(ちやくし)是行(これゆき)(こう)()となる。
306 (いとな)みを()らぬは公家(くげ)(つね)として
307  貧苦(ひんく)()()(せま)()にける。
308 伴人(ともびと)貧苦(ひんく)のために彼方此方(あちこち)
309  (わざ)(もと)めて(みだ)()りける。
310 是行(これゆき)(こう)奥方(おくがた)(とも)ない(いへ)()
311  (きた)(かた)さして(すす)みたまへる。
312 (さん)()(こほり)糖部(あまべ)につきたまひ
313  一望(いちばう)百里(ひやくり)荒野(くわうや)(まよ)へり。
314 馬淵川(うまぶちがは)(はし)なきままに(わた)()
315  草村(くさむら)わけつつ三里(さんり)()(のぼ)れり。
316 二三十戸(にさんじつこ)人家(じんか)(むね)()()めて
317  夫婦(ふうふ)蘇生(そせい)(よろこ)びに()く。
318 是行(これゆき)(こう)観音堂(くわんのんだう)()にとまり
319  (ここ)二人(ふたり)一夜(いちや)()かせり。
320 観音堂(くわんのんだう)別当(べつたう)(しつ)()(きた)
321  不思議(ふしぎ)邂逅(かいこう)(よろこ)()へり。
322 別当(べつたう)藤原(ふじはら)式部(しきぶ)その(むかし)
323  祖先(そせん)関白職(くわんぱくしよく)なりしなり。
324 是行(これゆき)式部(しきぶ)(ここ)兄弟(きやうだい)
325  (やく)(むす)びて(なが)()みけり。
326 是行(これゆき)(こう)()宗善(そうぜん)(あらた)めて
327  この山奥(やまおく)半生(はんせい)(おく)る。
328 (ここ)藤原(ふじはら)是行(これゆき)(こう)改名(かいめい)宗善(そうぜん)式部(しきぶ)(はか)らいに()つて、329(さん)()(ぐん)仁賀村(にがむら)安住(あんぢゆう)()(さだ)めて(なに)不自由(ふじいう)なく(くら)してゐたが、330只々(ただただ)(こころ)(かか)るは世継(よつぎ)()()(こと)であつた。331アア()()しい()しいと嘆息(たんそく)言葉(ことば)()(たび)奥方(おくがた)(ひそ)かに(おも)ふやう、332もう()(うへ)神仏(しんぶつ)祈願(きぐわん)()めて一子(いつし)(さづ)からんものと霊験堂(れいけんだう)観音(くわんのん)三七二十一日(さんしちにじふいちにち)参篭(さんろう)()し、333(ねが)はくは(わらは)()()(まま)にして(この)土地(とち)()()つるとも、334()成人(せいじん)したる(あかつき)(ふたた)(みやこ)帰参(きさん)して、335関白職(くわんぱくしよく)()るやうな器量(きりやう)ある男子(だんし)(さづ)(たま)へと一心不乱(いつしんふらん)(いの)つて()(うち)336恰度(ちやうど)二十一日(にじふいちにち)満願(まんぐわん)(よる)のこと、337日夜(にちや)疲労(ひらう)()()(おも)はず神前(しんぜん)にうとうととまどろめば、338何処(いづこ)ともなく偉大(ゐだい)なる神人(しんじん)姿(すがた)(あら)はれて()たまふやう、339汝の(ねがひ)(まか)せ、340一子(いつし)(さづ)けむ。341されどもその()(かなら)弥勒(みろく)出世(しゆつせい)(ねが)()し、342夢々(ゆめゆめ)(うたが)(なか)れ、343(われ)(みづ)御霊(みたま)神素盞嗚尊(かんすさのをのみこと)なりとて御手(みて)()たせ(たま)へる金扇(きんせん)奥方(おくがた)玉子(たまこ)(きみ)(さづ)けて(たちま)ちその御姿(みすがた)()へさせられた。344(ゆめ)よりさめたる奥方(おくがた)玉子(たまこ)(きみ)は、345(をつと)宗善(そうぜん)(ゆめ)次第(しだい)(つぶ)さに()げられしが、346()もなく懐胎(くわいたい)()となり(つき)()ちて(うま)()ちたは(たま)のやうな(をとこ)(おも)ひの(ほか)(をんな)()であつた。347夫婦(ふうふ)()(よろこ)()女子(ぢよし)なりしを(をし)みつつ(てふ)(はな)よと(はぐく)みつつ七歳(ななさい)となつた。348夫婦(ふうふ)男子(だんし)なれば(みやこ)(かへ)りて(ふたた)藤原家(ふじはらけ)(おこ)し、349関白職(くわんぱくしよく)()がせんとした(のぞ)みは俄然(がぜん)()づれたれども、350(いま)(あひだ)男装(だんさう)をさせ、351()くまでも男子(だんし)として祖先(そせん)家名(かめい)再興(さいこう)させんものと、352()南祖丸(なんそまる)()けたのであるが、353(だれ)いふとなく女子(ぢよし)男装(だんさう)して()るのだ、354それで男装坊(なんさうばう)だと(とな)ふるやうになつたのは是非(ぜひ)なき仕儀(しぎ)()はねばならぬ。
355 (しか)るに生者必滅(せいしやひつめつ)会者定離(ゑしやじやうり)のたとへにもれず、356(いた)ましや南祖丸(なんそまる)七歳(ななさい)になつた(とき)357母親(ははおや)玉子(たまこ)(きみ)不図(ふと)した原因(げんいん)病床(びやうしやう)()したる(かぎ)日夜(にちや)病勢(びやうせい)(おも)(ばか)りで、358最早(もはや)生命(せいめい)旦夕(たんせき)(せま)つて()たので南祖丸(なんそまる)枕辺(まくらべ)(ちか)()びよせて()ふ。
359 「お(まへ)(かみ)(まを)()(はは)一子(いつし)(さづ)からんと霊験堂(れいけんだう)三七日間(さんしちにちかん)参籠(さんろう)せし(とき)360(みづ)御霊(みたま)神素盞嗚神(かむすさのをのかみ)より、361(うま)れたる()弥勒(みろく)出生(しゆつせい)(ねが)ふべしとの(ゆめ)御告(おつ)げありたり。362(なんぢ)(この)(はは)()(のち)までも()(こと)(ばか)りは(わす)るなよ」
363(くる)しき(いき)(した)から物語(ものがた)りして(つい)(かへ)らぬ(たび)(おもむ)いて(しま)つたのである。
364 仁賀村(にがむら)宗善(そうぜん)夫婦(ふうふ)不自由(ふじいう)なく
365  安住(あんぢゆう)したり式部(しきぶ)好意(かうい)に。
366 世継(よつ)ぎの()()きを(かな)しみ宗善(そうぜん)
367  (つま)観音堂(くわんのんだう)(こも)れり。
368 立派(りつぱ)なる男子(だんし)()みて関白家(くわんぱくけ)
369  再興(さいこう)せんと日夜(にちや)(いの)れり。
370 素盞嗚(すさのを)(かみ)(ゆめ)()(あらは)れて
371  ()(さづ)けんと()らせ(たま)へり。
372 瑞御霊(みづみたま)(さづ)(たま)ひし(うず)()
373  弥勒(みろく)出生(しゆつせい)(ねが)女子(ぢよし)なる。
374 (つき)()ちて(うま)れたる()男装(だんさう)させ
375  ()南祖丸(なんそまる)とつけて(はぐ)くむ。
376 南祖丸(なんそまる)七歳(ななさい)(とき)母親(ははおや)
377  神示(しんじ)南祖(なんそ)()げて()()る。
378 弥勒(みろく)()(きた)さんとして()(かみ)
379  神子(みこ)をば(をんな)()ませ(たま)へる。
380 南祖丸(なんそまる)はじめ(ちち)宗善(そうぜん)381式部(しきぶ)夫婦(ふうふ)()(なみだ)(うち)野辺(のべ)(おく)りをやつと()ませた(のち)382(ちち)宗善(そうぜん)熟々(つらつら)南祖丸(なんそまる)()るに(とし)(をさな)けれども手習(てなら)学問(がくもん)(せい)()(あたか)(いち)()いて(じふ)(さと)るの(かしこ)さ、383(これ)真正(しんせい)男子(だんし)ならば成人(せいじん)(のち)京都(きやうと)(かへ)祖先(そせん)()(あら)はして吾家(わがや)関白家(くわんぱくけ)()(なほ)器量(きりやう)十分(じふぶん)であらう。384(しか)(なが)生来(しやうらい)女子(をみなご)如何(いか)骨格(こつかく)容貌(ようばう)男子(だんし)()たりとて(つま)(めと)子孫(しそん)()(こと)不可能(ふかのう)なり。385乳児(にうじ)(ころ)より男子(だんし)として養育(やういく)したれば世人(せじん)(これ)女子(ぢよし)()(もの)なかる()し。386()かず変生(へんしやう)男子(なんし)(ねが)ひを()()(まま)男子(だんし)として()(しよ)せしめ、387神仏(しんぶつ)(つか)へしめん。388(まこと)一子(いつし)出家(しゆつけ)すれば九族(きうぞく)(てん)(しやう)ずとかや。389()(つま)願望(ぐわんまう)()りて(かみ)より(あた)へられたる()なれば家名(かめい)再興(さいこう)野心(やしん)は、390流水(りうすゐ)(ごと)(すて)()り、391(そう)となつて(わが)(つま)菩提(ぼだい)(とむら)はしめんと決心(けつしん)(ほぞ)(かた)め、392奥方(おくがた)()より三日後(みつかご)393同郡(どうぐん)五戸(ごへ)(ざい)七崎(ななさき)観音(くわんのん)別当(べつたう)永福寺(えいふくじ)住僧(ぢゆうそう)なる徳望(とくばう)(たか)月志法印(げつしほふいん)(たの)みて弟子(でし)となし、394その()南僧坊(なんそうばう)()修行(しうぎやう)させる(こと)とはなつた。
395 宗善(そうぜん)公家(くげ)再興(さいこう)(ねん)()
396  南祖丸(なんそまる)をば出家(しゆつけ)となしたり。
397 七崎(ななさき)観音(くわんのん)別当(べつたう)月志法印(げつしほふいん)
398  南祖丸(なんそまる)をば弟子(でし)とし(をし)へし。
399 (ここ)(ちから)(たの)みし(つま)(うしな)愛児(あいじ)南祖丸(なんそまる)月志法印(げつしほふいん)(たく)した宗善(そうぜん)(いま)(なに)をか(たの)しまんとて(うま)数多(あまた)(ぼく)老後(らうご)(なぐさ)(くら)して()た。
400 (しか)るに不可思議(ふかしぎ)なる(こと)如何(いか)なる悍馬(かんま)宗善(そうぜん)(うまや)()れば(ただち)悪癖(あくへき)(なほ)名馬(めいば)()るのを()て、401里人(さとびと)(いづ)れも(これ)()とし宗善(そうぜん)没後(ぼつご)には宗善(そうぜん)(れい)(まつ)りて一宇(いちう)建立(こんりふ)馬頭(ばとう)観音(くわんのん)(とな)(その)(とく)(しの)んで()るが、402奥州(おうしう)南部(なんぶ)地方(ちはう)習慣(しふくわん)として馬頭(ばとう)観音(くわんのん)蒼前(さうぜん)宗善(そうぜん))と()ひ、403(また)宗善(そうぜん)絵馬(ゑま)()(こと)(たの)しみとしてゐたので後世(こうせい)(いた)るまで絵馬(ゑま)御堂(みだう)奉納(ほうなふ)する風習(ふうしふ)(のこ)つたのである。404そして永福寺(えいふくじ)弟子(でし)(いり)をした南僧坊(なんそうばう)日夜(にちや)学問(がくもん)(はげ)みその明智(めいち)405非凡絶倫(ひぼんぜつりん)には月志法印(げつしほふいん)(した)()いて感嘆(かんたん)するのであつた。406かくて(その)()数年(すうねん)()南僧坊(なんそうばう)(ここ)十三歳(じふさんさい)(はる)(むか)ふるに(いた)つた。
407 円明鏡(ゑんみやうかがみ)(ごと)(きよ)らかな念仏(ねんぶつ)修行(しうぎやう)408はらはらと()桜花(さくらばな)(もと)南僧坊(なんそうばう)瞑想(めいさう)(ふけ)つて()た。409幽寂(いうじやく)(かね)()()んで夕暮(ゆふぐれ)(ちか)(ころ)410瞑想(めいさう)よりフト(われ)(かへ)つて彼方(かなた)大空(おほぞら)(なが)め、411()(はは)臨終(りんじう)遺言(ゆゐごん)をぢつと(かんが)()んだ。412アア(わが)母上(ははうへ)枕頭(ちんとう)(われ)(まね)(くる)しき(いき)(した)から「弥勒(みろく)出世(しゆつせ)大願(たいぐわん)(わす)るる(なか)れ」と()はれた。413アア弥勒(みろく)弥勒(みろく)出世(しゆつせ)大願(たいぐわん)414(しか)(なが)自力(じりき)にてはとても(かな)ふべくも()い。415(これ)より(われ)紀伊国(きいのくに)熊野(くまの)参詣(さんけい)して神力(しんりき)(いの)りながら大願(たいぐわん)成就(じやうじゆ)せんものと決心(けつしん)(かた)()(ばう)月志法印(げつしほふいん)熊野(くまの)参詣(さんけい)志望(しばう)(まを)()でたが、416まだ幼者(えうしや)だからとて(ゆる)されなかつた。417南僧坊(なんそうばう)(いま)是非(ぜひ)なく(ある)()(ひそ)かに寺門(じもん)()()七崎(ななさき)(むら)(あと)遥々(はるばる)紀伊路(きいぢ)()して出発(しゆつぱつ)してしまつた。
418 宗善(そうぜん)(つま)(わか)れて(たの)しまず
419  (つい)馬飼人(うまかひにん)となりけり。
420 荒馬(あらうま)宗善(そうぜん)()へば(たちま)ちに
421  良馬(りやうば)となるぞ不思議(ふしぎ)なりけり。
422 宗善(そうぜん)死後(しご)里人(さとびと)宗善(そうぜん)
423  観音堂(くわんのんだう)()(まつ)()めたり。
424 宗善(そうぜん)蒼前(さうぜん)馬頭(ばとう)観音(くわんのん)
425  (いつ)(まつ)れば良馬(りやうば)(うま)るる。
426 宗善(そうぜん)絵馬(ゑま)(この)みて()きたれば
427  後人(こうじん)絵馬堂(ゑまだう)()てて(いの)れり。
428 女身(によしん)とは()へど骨格(こつかく)(たくま)しく
429  男子(だんし)(おと)らぬ風格(ふうかく)ありけり。
430 南僧坊(なんそうばう)(はは)遺言(ゆゐごん)(おも)()
431  弥勒(みろく)出生(しゆつせい)大願(たいぐわん)()つ。
432 桜花(あうくわ)()木蔭(こかげ)()して瞑想(めいさう)
433  (ふけ)南祖(なんそ)弥勒(みろく)()()つ。
434 ()(くに)熊野(くまの)(まう)神力(しんりき)
435  ()んため()(ばう)(ゆる)しを()ひたり。
436 (とし)はまだ十三(じふさん)(ばう)幼若(えうじやく)
437  (ゆゑ)もて()(ばう)旅行(りよかう)(ゆる)さず。
438 南僧坊(なんそうばう)決心(けつしん)(かた)(よる)()
439  寺門(じもん)()けて紀州(きしう)(むか)へり。
440 ()紀伊国(きいのくに)熊野山(くものやま)本地(ほんち)弥陀(みだ)薬師(やくし)観音(くわんのん)にして熊野(くまの)三社(さんしや)()はれ(その)霊験(れいけん)いやちこなりと(つた)へらるる霊場地(れいぢやうち)であつて、441三社(さんしや)御本体(ごほんたい)は、442(みづ)(みたま)()ツの(みたま))の(かみ)変名(へんめい)である。443南僧坊(なんそうばう)(いち)(しよ)御堂(みだう)廿一(にじふ)(にち)(づつ)(さん)(しよ)()もつて断食(だんじき)をなし、444日夜(にちや)三度(さんど)づつ、445水垢離(みづごり)()つて精進(しやうじん)潔斎(けつさい)一心不乱(いつしんふらん)になつて弥勒(みろく)御出世(ごしゆつせ)(いの)るのであつた。446恰度(ちやうど)満願(まんぐわん)夜半(やはん)になつて、447南僧坊(なんそうばう)不思議(ふしぎ)霊夢(れいむ)(かうむ)つたので、448それより諸国(しよこく)行脚(あんぎや)して(すべ)ての神仏(しんぶつ)(いの)らんと熊野(くまの)神社(じんじや)(あと)第一回(だいいちくわい)諸国(しよこく)巡礼(じゆんれい)(おも)()(こと)となつた。
449 南僧坊(なんそうばう)熊野(くまの)三社(さんしや)参詣(さんけい)
450  三週(さんしう)(さん)(しよ)水垢離(みづごり)()る。
451 瑞御魂(みづみたま)(かみ)夢告(むこく)(かうむ)りて
452  諸国(しよこく)巡礼(じゆんれい)(たび)する南僧坊(なんそうばう)
453 熊野(くまの)三社(さんしや)弥陀(みだ)薬師(やくし)観音(くわんのん)
454  ()つの御魂(みたま)権現(ごんげん)なりけり。
455 数十年(すうじふねん)修行(しうぎやう)()せと皇神(すめかみ)
456  男装坊(なんさうばう)南僧坊(なんそうばう))に()らせ(たま)へり。
457 神勅(しんちよく)()つて熊野(くまの)三社(さんしや)立出(たちい)でた男装坊(なんさうばう)()高野山(かうやさん)(のぼ)大願(たいぐわん)成就(じやうじゆ)一心不乱(いつしんふらん)祈願(きぐわん)(をは)つて山麓(さんろく)()かかると、458道傍(みちばた)岩石(がんせき)(こし)()ろし(やす)んで()一人(ひとり)山伏(やまぶし)がつかつかと男装坊(なんさうばう)(まへ)(すす)んで()た。459()れば身長(しんちやう)六尺(ろくしやく)()460柿色(かきいろ)法衣(ほふい)太刀(たち)()金剛杖(こんがうづゑ)をついて威勢(ゐせい)よく言葉(ことば)(たか)らかに、461如何(いか)御坊(ごばう)修行(しうぎやう)法師(ほふし)(げふ)見受(みう)けたり。462(なんぢ)男子(だんし)(ふん)すれども(わが)法力(ほふりき)(もつ)(くわん)ずるに(まつた)女人(によにん)なり。463女人(によにん)禁制(きんせい)霊山(れいざん)(をか)しながら修行(しうぎやう)などとは(もつ)ての(ほか)不埒(ふらち)ならずや。464(かなら)ずや(ほとけ)(とがめ)()つて修行(しうぎやう)(こう)(むな)しからん。465万々一(まんまんいち)修行(しうぎやう)(こう)ありとせば(わが)(まへ)にて(その)法力(ほふりき)(あらは)すべし」と言葉(ことば)()けられて男装坊(なんさうばう)暫時(ざんじ)ぎよつとしたるが、466(ただち)(こころ)()(なほ)満面(まんめん)()みを(たた)へながら、467(なんぢ)(われ)(むか)つて女人(によにん)なれば不埒(ふらち)とは何事(なにごと)ぞ、468衆生(しうじやう)済度(さいど)誓願(せいぐわん)男女(だんぢよ)区別(くべつ)あるべきや。469(われ)修行(しうぎやう)(こう)如何(いかん)とは()なり。470三界(さんかい)大導師(だいだうし)釈迦牟尼(しやかむに)如来(によらい)でさへも阿羅々(あらら)仙人(せんにん)(つか)へて()本懐(ほんくわい)()(たま)ひしと()く。471(いは)んや凡俗(ぼんぞく)拙僧(せつそう)(いま)修行中(しうぎやうちう)にて大悟(たいご)徹底(てつてい)(ゐき)(たつ)せず。472御身(おんみ)(おい)ては(また)修行(しうぎやう)(こう)ありや」と謙遜(けんそん)しつつも反問(はんもん)した(とき)473()山伏(やまぶし)鼻高々(はなたかだか)(こた)ふやう、474拙者(せつしや)はそもそも大峰(おほみね)葛城(かつらぎ)小角(せうかく)475吉野(よしの)にては金剛(こんがう)蔵王(ざうわう)476熊野(くまの)権現(ごんげん)三所(さんしよ)その()山々(やまやま)渓々(たにだに)にて(きは)めし法力(ほふりき)によつて(そら)()(とり)(いの)(おと)し、477()したる(もの)()かす(こと)自由(じいう)なり。478いざ(なんぢ)法力(ほふりき)(おこな)(くら)べん」
479()めよるにぞ、480男装坊(なんさうばう)(しづ)かに(こた)へ、481
482「さらば貴殿(きでん)法力(ほふりき)()(たま)へ」「(しか)らば御目(おめ)()けん、483(おどろ)くな」と山伏(やまぶし)(こし)()げたる法螺(ほら)(かひ)()つて(なに)やら呪文(じゆもん)(とな)ふると()えしが、484(たちま)炎々(えんえん)たる火焔(くわえん)(かひ)(しり)から()()してその火光(くわくわう)四方(しはう)(かがや)(さま)(じつ)見事(みごと)であつた。485男装坊(なんさうばう)泰然自若(たいぜんじじやく)として暫時(ざんじ)()(なが)()たるが、486やがてニツコと微笑(ほほゑ)みながら(しづ)かに九字(くじ)()つて合掌(がつしやう)するや(たちま)猛烈(まうれつ)なりし火焔(くわえん)(あと)なく()()せて(しま)つた。487山伏(やまぶし)最初(さいしよ)(じゆつ)(やぶ)れたるを()やしがり、488(なに)小癪(こしやく)今度(こんど)こそは(おも)()らせんと(ばか)(かたはら)小高(こだか)(ところ)()(あが)りざま、489珠数(じゆず)(くだ)けよと()しもんで一心不乱(いつしんふらん)(いの)れば()()一天(いつてん)(にはか)()(くも)りピユーピユーと(すご)(かぜ)彼方(かなた)山頂(さんちやう)より()()りて一団(いちだん)黒雲(こくうん)(またた)()(ひろ)がり(ゆき)さへ(まじ)へて(もの)さみしい(ふゆ)景色(けしき)(かは)つて(しま)つた。490()(とき)異様(いやう)怪物(くわいぶつ)遠近(ゑんきん)より(あら)はれ()(わら)ふもの(さけ)ぶものの(こゑ)天地(てんち)()(とどろ)きさも(おそ)ろしき光景(くわうけい)現出(げんしゆつ)した。491(しか)れども男装坊(なんさうばう)(すこ)しも(さわ)(いろ)なく、492()ても()ても見事(みごと)なる御手(おて)(うち)」と()めそやしながら真言(しんごん)(そく)言霊(げんれい)神器(しんき)(もち)ゆれば、493(いま)までの物凄(ものすご)光景(くわうけい)(たちま)消滅(せうめつ)して(ふたた)(もと)晴天(せいてん)にかへつた。
494 山伏(やまぶし)(これ)()て、495(おそ)()つたる御手(おて)(うち)496愚僧(ぐそう)()(およ)(ところ)(あら)ず。497御縁(ごえん)()らば(また)()(かか)らん」と男装坊(なんさうばう)法力(ほふりき)征服(せいふく)された山伏(やまぶし)叮嚀(ていねい)会釈(ゑしやく)(かは)して何処(いづこ)ともなく立去(たちさ)つて(しま)つた。
498 ()くて男装坊(なんさうばう)高野(かうや)(やま)(くだ)紀州(きしう)尾由村(をよしむら)といふ(ところ)()(かか)嘉茂(かも)()へる有徳(うとく)(ひと)(もと)一夜(いちや)宿(やど)(もと)めた。499(ところ)()()主人(しゆじん)男装坊(なんさうばう)居室(きよしつ)(たづ)ねて()ふよう、500(じつ)(わたし)(つま)四年(よねん)(ばか)(まへ)から不思議(ふしぎ)病気(びやうき)(をか)され、501遠近(ゑんきん)行者(ぎやうじや)(たの)みて祈祷(きたう)するも一向(いつこう)(すこ)しの効目(ききめ)()(まこと)(こま)()ててゐる次第(しだい)なれば何卒(なにとぞ)御坊(ごばう)御法力(ごほふりき)(もつ)御祈念(ごきねん)(たま)はり()し」と言葉(ことば)(つく)して(たの)()様子(やうす)男装坊(なんさうばう)は「してその御病気(ごびやうき)とは」と()へば「ハイ(じつ)()()(かみ)(なか)から(とり)(あたま)無数(むすう)(いで)ては()(さけ)び、502その(とり)(くち)(めし)()()めば(たちま)頭髪(とうはつ)(なか)(かく)れるといふ奇病(きびやう)です。503(なん)()つても毎夜(まいよ)毎夜(まいよ)のことで(つま)非常(ひじやう)(やつ)()明日(あす)をも()れない有様(ありさま)504何卒(なにとぞ)御見届(おみとど)けの(うへ)御救(おすく)(くだ)され()し」と(なみだ)をはらはらと(なが)して(たの)むのであつた。505男装坊(なんさうばう)暫時(ざんじ)小首(こくび)(かたむ)(かんが)へて()たが、506「はて奇態(きたい)なる(こと)(うけたま)はるものかな。507(なに)はともあれ拙僧(せつそう)(およ)ばず(なが)()正体(しやうたい)見届(みとど)けし(うへ)祈念(きねん)()さん」と(こころ)よく承諾(しようだく)した言葉(ことば)主人(しゆじん)欣喜雀躍(きんきじやくやく)するのであつた。508()てその()丑満(うしみつ)(おぼ)しき(ころ)になると(あん)(ごと)病人(びやうにん)(あたま)から数十羽(すうじふは)(とり)(あたま)()()(さけ)(さま)(じつ)気味(きみ)(わる)(ほど)である。509男装坊(なんさうばう)病人(びやうにん)(くる)しむ様子(やうす)熟視(じゆくし)した(うへ)510()ても()ても不憫(ふびん)(もの)なるかな」と座敷(ざしき)中央(ちうおう)(だん)(かざ)つて病人(びやうにん)北向(きたむ)きに(なほ)し、511高盛(たかもり)(しよく)十三(じふさん)(もり)512五色(ごしき)(ぬさ)三十三(さんじふさん)(ぼん)()()清水(せいすゐ)(たらひ)()んで、513(あし)」といふ文字(もじ)()いた一寸(いつすん)四方(しはう)紙片(しへん)(みづ)(うか)べ、514さて(ころも)(そで)(むす)んで(かた)()ちかけ珠数(じゆず)をさらさらと()しもんで(しばら)(いの)ると()えしが不思議(ふしぎ)なるかな(いま)まで七転八倒(しちてんばつたふ)(くる)しみに呻吟(しんぎん)して()病人(びやうにん)(たちま)元気(げんき)()(あたま)(とり)一羽(いちは)(のこ)らず()()せて(しま)つた。515最早(もはや)大丈夫(だいぢやうぶ)明晩(みやうばん)からは何事(なにごと)()かるべし」と()へば主人(しゆじん)(はじ)(なみ)()一統(いつとう)人々(ひとびと)非常(ひじやう)(よろこ)んで(れい)()(すす)めらるるままに一両日(いちりやうじつ)(あし)(とど)むることとはなつた。
516 (はた)してその翌晩(よくばん)からは何事(なにごと)もなくなつたので男装坊(なんさうばう)(とど)むる家人(かじん)に、517(いそ)ぎの(たび)なれば」と(わか)れを()ぐるや主人(しゆじん)は「名残(なごり)(をし)(こと)ながら最早(もはや)是非(ぜひ)もなし、518些少(させう)ながら」とて数々(かずかず)進物(しんもの)(おく)らうとしたが、519拙僧(せつそう)()(ふか)願望(ぐわんまう)あつて、520諸国(しよこく)(まは)るもの一切(いつさい)(ほどこ)(もの)()(がた)し。521()(なが)折角(せつかく)御厚志(ごこうし)()にするも()んとやら、522(また)(ひと)つには病人(びやうにん)より(はな)れた(とり)どもは()のままにして()いてはさぞや(まよ)()るならんも心許(こころもと)なし、523(いま)(ひと)つの(ねが)ひあり、524(これ)より(ひがし)(あた)つて一里(いちり)(ばか)りの(ところ)にある竹林(ちくりん)(なか)(ひと)つの御堂(みだう)建立(こんりふ)し、525(がく)鳥林寺(てうりんじ)(めい)()(たま)はらば(さいはひ)なり」と()(のこ)してから家人(かじん)(ふたた)(わか)れを()げて(みち)(いそ)いだ。526それより男装坊(なんさうばう)二名(ふたな)(しま)(わた)数々(かずかず)奇瑞(きずゐ)(あら)はし九州(きうしう)(わた)つて筑紫(つくし)(くに)(あまね)(まは)所々(ところどころ)にて病人(びやうにん)(すく)(あるひ)御堂(みだう)建立(こんりふ)する(こと)(かず)()れず(ふたた)本土(ほんど)(かへ)熊野(くまの)(まう)三七日間(さんしちにちかん)祈願(きぐわん)()第二回目(だいにくわいめ)諸国(しよこく)行脚(あんぎや)()た。
527 男装坊(なんさうばう)熊野(くまの)(あと)紀伊(きい)(くに)
528  高野(かうや)(やま)(まう)でてぞ()く。
529 高野山(かうやさん)(くだ)れば(ふもと)(みち)()
530  山伏(やまぶし)ありていどみ(かか)れり。
531 男装坊(なんさうばう)山伏僧(やまぶしそう)妖術(えうじゆつ)
532  (のこ)らず(やぶ)れば山伏(やまぶし)謝罪(しやざい)す。
533 高野山(かうやさん)あとに尾由(をよし)(むら)()
534  嘉茂(かも)のやかたに(つゆ)宿(やど)りす。
535 嘉茂(かも)(つま)奇病(きびやう)(すく)(てら)()
536  (いそ)二名(ふたな)(しま)(わた)れり。
537 二名嶋(ふたなしま)筑紫(つくし)(しま)経巡(へめぐ)りて
538  奇蹟(きせき)(あら)はし衆生(しうじやう)(すく)へり。
539 男装坊(なんさうばう)(ふたた)熊野(くまの)()(かへ)
540  三七日(さんしちにち)荒行(あらぎやう)()す。
541 男装坊(なんさうばう)(ここ)より二度目(にどめ)国々(くにぐに)
542  行脚(あんぎや)(たび)()()でにけり。
543 男装坊(なんさうばう)弥勒(みろく)出世(しゆつせ)大願(たいぐわん)(ため)国々(くにぐに)里々(さとざと)津々(つづ)浦々(うらうら)(のこ)(くま)なく修行(しうぎやう)しつつ十三才(じふさんさい)(ころ)より七十六歳(しちじふろくさい)(いた)るまで前後(ぜんご)(つう)じて(ほと)んど六十四年間(ろくじふよねんかん)(やす)みなく(ある)(つづ)けたがこの(かん)熊野(くまの)三社(さんしや)(ぬかづ)きし(こと)三十二回(さんじふにくわい)(およ)んだ。544そして恰度(ちやうど)三十三回目(さんじふさんくわいめ)熊野(くまの)(まう)での(とき)三七日(さんしちにち)社前(しやぜん)通夜(つうや)した満願(まんぐわん)(よる)(おも)はずとろとろと社前(しやぜん)微睡(びすゐ)した。545(おも)ふと(ゆめ)とも(うつ)つとも(わか)らず神素盞嗚神(かむすさのをのかみ)威容(ゐよう)厳然(げんぜん)たる三柱(みはしら)(かみ)(したが)(あら)はれ(たま)神々(かうがう)しいその(なか)一柱神(ひとはしらがみ)が「如何(いか)男装坊(なんさうばう)546(なんぢ)(はは)孝信(かうしん)として弥勒(みろく)出世(しゆつせ)(ねが)(こと)不便(ふびん)なり。547(なんぢ)()草鞋(わらぢ)穿()()(つゑ)()くままに山々(やまやま)峰々(みねみね)(すべ)(めぐ)るべし。548()草鞋(わらぢ)()れたる(ところ)(なんぢ)住家(すみか)(おも)ひそこにて弥勒(みろく)三会(さんゑ)神人(しんじん)出世(しゆつせい)()つべし」と()(のこ)神姿(しんし)(たちま)()()(ごと)くに(かく)(たま)ふた。549男装坊(なんさうばう)(ゆめ)より()めて自分(じぶん)枕頭(ちんとう)()れば(てつ)(つく)れる草鞋(わらぢ)(いばら)(つゑ)一本(いつぽん)()かれてあつた。550男装坊(なんさうばう)蘇生(そせい)歓喜(くわんき)(なみだ)にむせび(なが)ら、551「アア有難(ありがた)有難(ありがた)()大願(たいぐわん)成就(じやうじゆ)せり」と百度(ひやくど)千度(せんど)社前(しやぜん)(ぬかづ)きて感謝(かんしや)()し、552「さらば熊野(くまの)大神(おほかみ)神命(しんめい)(したが)国々(くにぐに)山々(やまやま)峰々(みねみね)跋渉(ばつせふ)せん」と熊野(くまの)三社(さんしや)(はじ)日本(にほん)全国(ぜんこく)高山(かうざん)秀嶽(しうがく)(ほと)んど足跡(そくせき)(いん)せざる(ところ)()きまでに(いた)つたのである。
553 男装坊(なんさうばう)前後(ぜんご)六十四年間(ろくじふよねんかん)
554  (やす)まず日本(にほん)全土(ぜんど)(めぐ)りぬ。
555 熊野社(くまのしや)三十三回(さんじふさんくわい)参詣(さんけい)
556  (てつ)草鞋(わらぢ)(つゑ)(もら)へり。
557 男装坊(なんさうばう)弥勒(みろく)出世(しゆつせい)大願(たいぐわん)
558  成就(じやうじゆ)したりと(うれ)(なみだ)す。
559 瑞御霊(みづみたま)三柱神(みはしらがみ)(あら)はれて
560  男装坊(なんさうばう)先途(せんと)(しめ)さる。
561 それより男装坊(なんさうばう)日本(にほん)全洲(ぜんしう)霊山(れいざん)霊地(れいち)()のつく箇所(かしよ)(のこ)らず巡錫(じゆんしやく)名山(めいざん)巨刹(きよさつ)(あし)(とど)めて道法礼節(だうはふれいせつ)()き、562各地(かくち)雲児水弟(うんじすゐてい)草庵(さうあん)()ひて(はふ)(をし)()研究(けんきう)し、563時々(ときどき)(やまひ)(なや)めるを(すく)不善者(ふぜんしや)改過遷善(かいくわせんぜん)(みち)(さづ)けて功徳(くどく)()(かさ)(なが)北方(ほくぱう)(てん)(のぞ)んで行脚(あんぎや)(たび)十幾年間(じふいくねんかん)(つづ)けたる(ため)564鬚髯(しゆぜん)(しも)(まじ)ゆる年配(ねんぱい)となり、565幾十年(いくじふねん)()りにて故郷(こきやう)永福寺(えいふくじ)(かへ)つてみれば、566(かな)しきかも恩師(おんし)両親(りやうしん)(すで)(すで)他界(たかい)せし(あと)にて、567(ただ)(いたづ)らに墓石(はかいし)秋風(あきかぜ)(むせ)んでゐるのみであつた。
568 男装坊(なんさうばう)今更(いまさら)(ごと)くに諸行無常(しよぎやうむじやう)(かん)(おの)不孝(ふかう)鳴謝(めいしや)し、569(ねんごろ)菩提(ぼだい)(とむら)(また)もや熊野(くまの)大神(おほかみ)御誓言(ごせいごん)もあるところより何時(いつ)(まで)故郷(こきやう)(あし)(とど)むる(わけ)にもゆかなかつた。
570 ()(もと)のあらゆる霊山(れいざん)霊場(れいぢやう)
571  巡錫(じゆんしやく)なして(みち)()きつつ。
572 雲水(うんすゐ)(ともがら)(など)(のり)(みち)
573  (つた)(つた)へて諸国(しよこく)行脚(あんぎや)す。
574 いたづきに(なや)める数多(あまた)人々(ひとびと)
575  (すく)ひつ(めぐ)りし男装坊(なんさうばう)かな。
576 数十年(すうじふねん)行脚(あんぎや)(をは)りてふる(さと)
577  (かへ)れば恩師(おんし)父母(ふぼ)()まさず。
578 ()(ばう)やたらちねの(はか)にしくしくと
579  (まうで)()れば(むせ)秋風(あきかぜ)
580 ()(なか)諸行無常(しよぎやうむじやう)今更(いまさら)
581  (かん)じて師父(しふ)菩提(ぼだい)(とむら)ふ。
582 三熊野(みくまの)(かみ)(ちか)ひを(はた)さむと
583  男装坊(なんさうばう)故郷(ふるさと)()つ。
584 陸奥(むつ)国人(くにびと)たちより大蛇(をろち)()めりと(おそ)れられ(ひと)()一人(ひとり)近寄(ちかよ)りしことの()赤倉山(あかくらやま)585言分山(ことわけやま)586八甲田山(はつかふださん)などへ(のぼ)つて悪魔(あくま)言向和(ことむけやは)さむと、587(また)もやその(とし)晩秋(ばんしう)(かぜ)()(すさ)山野(さんや)行脚(あんぎや)(たび)()()づることとした。
588 ()りに()りしく紅葉(もみぢ)(あめ)(すげ)小笠(をがさ)()け、589(つも)山路(やまぢ)落葉(おちば)(かね)草鞋(わらぢ)()()(かな)しげに()鹿(しか)(こゑ)遠近(をちこち)(やま)()()渓間(たにま)()きつつ西(にし)西(にし)へと(みち)もなき嶮山(けんざん)岩根(いはね)木根(きね)()みさくみつつ深山(みやま)()()り、590()()のこと岩窟内(がんくつない)一夜(いちや)(つゆ)宿(やど)りせんものと岩間(いはま)()れくる燈火(ともしび)便(たよ)りに荊棘(いばら)をはつはつ()けて辿(たど)りつき()ればコハそも如何(いか)(あや)しとも(あや)(はな)(うそ)「嘘」…底本では「啌」。つく妙齢(めうれい)美人(びじん)(あらは)れて、591男装坊(なんさうばう)()ひくることを予期(よき)してゐたかの(やう)満面(まんめん)()みを(たた)えて()(しやう)()れた。
592 「あな(うれ)しや(なつか)しや、593御坊(ごばう)はその()男装坊(なんさうばう)とは(まを)さざるや。594(わらは)()ぐる(とし)観相術(くわんさうじゆつ)(めう)()たる行者(ぎやうじや)(げん)によりて、595(わらは)前生(ぜんせい)にて(いつ)くしみ(いつく)しまれたる()(きみ)たりし(ひと)現代(げんだい)にも再生(さいせい)男装坊(なんさうばう)()のり、596諸国(しよこく)行脚(あんぎや)(すゑ)今年(ことし)今宵(こよひ)この山中(さんちう)()たらるべきを()()り、597幾歳(いくとせ)(まへ)より()附近(ふきん)山中(さんちう)()りて貴坊(きばう)再会(さいくわい)すべき今日(けふ)()()指折(ゆびを)(かぞ)へひたすらに()(まを)(もの)なり。598(ねが)はくは(わらは)(ねが)ひを()れて今生(こんじやう)にて妹背(いもせ)(ちぎ)りを(むす)び、599我身(わがみ)()(きみ)()らせ(たま)へ」と()ふにぞ、600男装坊(なんさうばう)(おほい)(おどろ)き、601我身(わがみ)三熊野(みくまの)大神(おほかみ)御霊示(ごれいじ)()つて(すゑ)(ぬし)となるべき霊地(れいち)探査(たんさ)して難行(なんぎやう)苦業(くげう)(たび)(つづ)くるもの(ゆゑ)602如何(いか)御身(おんみ)(ねが)ひなればとて、603一身(いつしん)安逸(あんいつ)(むさぼ)(ため)大神(おほかみ)への(ちか)ひを(やぶ)(わけ)にはゆかぬ。604自分(じぶん)実際(じつさい)女身(によしん)男装者(だんさうしや)である」と、605懇々(こんこん)説示(せつじ)して心底(しんてい)より(あきら)めさせようと努力(どりよく)はしたが、606(こひ)闇路(やみぢ)(まよ)つた女性(ぢよせい)到底(たうてい)素直(すなほ)()()るべき気配(けはい)もなく、607(くび)左右(さいう)()(なみだ)をはらはらと(なが)(なが)ら「御坊(ごばう)(たと)女身(によしん)なりとて出家(しゆつけ)なりとて(おな)じく人間(にんげん)(うま)(たま)ひし(うへ)血潮(ちしほ)体内(たいない)(なが)れざる理由(いはれ)なし。608よしやよし三熊野(みくまの)大神(おほかみ)への(ちか)ひはあるとは()左様(さやう)なる味気(あぢけ)なき『枯木倚寒巌三冬無暖気』「枯木倚寒巌三冬無暖気」…「枯木(こぼく)寒巌(かんがん)に倚(よ)って三冬(さんとう)暖気(だんき)無し」と読む。「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という禅の公案に出てくる一文。冷淡で近づきにくい態度を指す「枯木寒巌(こぼくかんがん)」という熟語で知られる。(てき)生涯(しやうがい)(おく)られては人間(にんげん)として現世(げんせい)(うま)れたる(たの)しみは(いづ)れに()りや。609(わらは)(いほり)(かく)(ごと)()るもいぶせき岩屋(いはや)なれど、610前生(ぜんせい)にありし妹背(いもせ)(ふか)(ちぎ)りを今生(こんじやう)(よみが)へらせて(いと)(いと)しき(きみ)生活(なりはひ)()すならば、611たとへ木枯(こがらし)すさぶ晩秋(ばんしう)(そら)(ゆき)()()もる深山(みやま)(おく)(かく)()我家(わがや)のみは春風駘蕩(しゆんぷうたいたう)として()()たり、612暖気(だんき)室内(しつない)()()ちて()()(うつ)(かは)りも他所(よそ)()()のみは永久(とこしへ)(はる)なるべきに。613この(あはれ)むべき女性(ぢよせい)至誠(しせい)木石(ぼくせき)ならぬ肉身(にくしん)()御坊(ごばう)(むね)には透徹(とうてつ)せざるか。614(いと)しの御坊(ごばう)よ、615その(かみ)への(ちか)ひとやらを放擲(はうてき)して(わらは)主人(あるじ)となり()岩屋(いはや)永久(えいきう)(とど)まり(たま)へ」と(ころも)(そで)にまつはり()(さま)(ほと)んど仏弟子(ぶつでし)阿難(あなん)尊者(そんじや)(こひ)せし旃陀羅女(せんだらめ)(おも)ひも(かく)やとばかり嬌態(けうたい)(つく)春怨(しゆんゑん)綿々(めんめん)として()口説(くど)くのである。
616 男装坊(なんさうばう)には(ゆめ)にも()らぬ(いま)意外(いぐわい)出来事(できごと)当惑(たうわく)し、617最初(さいしよ)(あひだ)()(こまね)いて黙然(もくぜん)たりしが、618()(ひざ)()(くづ)荒波(あらなみ)()たせて(かな)しみなげく女性(ぢよせい)のしほらしき艶容(えんよう)()ては、619人性(にんしやう)()ちて(うま)()でたる男装坊(なんさうばう)620たとへ自分(じぶん)女体(によたい)とは()黙殺(もくさつ)することは出来(でき)ない。621(こと)(あい)(かみ)(じん)(ほとけ)化身(けしん)なる男装坊(なんさうばう)(ひと)(あはれ)(じやう)(ひと)一倍(いちばい)(ふか)()にとつては如何(いかん)とも(これ)をすることが出来(でき)ない。622過去(くわこ)数十年間(すうじふねんかん)(おの)修行(しうぎやう)(やぶ)悪魔(あくま)として気強(きづよ)五臓(ござう)(おく)(あひだ)押込(おしこ)めて()いた(あい)戒律(かいりつ)一念(いちねん)朝日(あさひ)にあたる(つゆ)(ごと)くに()()めて、623(つい)には女性(ぢよせい)(なさけ)にほだされ大神(おほかみ)への(ちか)ひを(やぶ)らんとした一利那(いつせつな)624(たちま)脳裏(なうり)電光(でんくわう)(ごと)くに(ひら)めき(わた)つたのは今日(けふ)(まで)片時(かたとき)(わす)れられなかつた三熊野(みくまの)大神(おほかみ)御霊示(ごれいじ)(とき)光景(くわうけい)荘厳(さうごん)さであつた。625そこで男装坊(なんさうばう)此処(ここ)にこの(まま)()()くるを()たば森羅万象(しんらばんしやう)()(つく)さねば()まぬ(てい)女性(ぢよせい)熱情(ねつじやう)にほだされ永年(ながねん)(のぞ)み、626(かた)くなりし信念(しんねん)()かされて(つい)には大神(おほかみ)への(ちか)ひを(やぶ)大罪(だいざい)(かさ)ぬることになつて(しま)ふ。627女性(ぢよせい)には()(どく)ではあるが(ひと)(こころ)(おに)とし(じや)()して()()すより(ほか)(みち)方法(はうはふ)もなしと(かた)(にぎ)()めてゐる美女(びぢよ)()から法衣(ほふえ)(そで)()(はな)し、628()(さけ)びつつ(あと)()つかけ()たる可憐(かれん)女性(ぢよせい)(こゑ)(あと)一目散(いちもくさん)(ふか)(やみ)山中(さんちう)生命(いのち)からがら()()んで(しま)ひやつと一息(ひといき)をつくのであつた。629それより(また)もや幾日(いくにち)幾夜(いくよ)(かさ)ねて(うへ)(うへ)へと(のぼ)()め、630ある(やま)(いただき)(のぼ)りて()れば意外(いぐわい)にもかかる深山(しんざん)(なか)にあるべしとも(おも)はれぬ宏大(くわいだい)なる湖水(こすゐ)()(まへ)展開(てんかい)してゐた。631男装坊(なんさうばう)(おどろ)()(よろこ)湖面(こめん)四囲(しゐ)山並(やまなみ)(うつく)しい風光(ふうくわう)見惚(みと)れてゐると、632不思議(ふしぎ)なるかな(あし)穿(うが)ちたる(かね)草鞋(わらぢ)()がふつつりと()れた。633(つぎ)()()つた錫杖(しやくじやう)(たちま)三段(さんだん)()れて()()()()(ごと)(てん)()()がり大湖(たいこ)水面(すいめん)()ちて(しま)つた。634男装坊(なんさうばう)(おも)ふやう、635()ては幾十年(いくじふねん)(あひだ)夢寐(むび)にも(わす)れざりし()成仏(じやうぶつ)()636永住(えいぢゆう)棲家(すみか)とは此処(ここ)のことであつたか。637かかる風光(ふうくわう)明媚(みやうび)なる大湖(たいこ)()棲家(すみか)とは()有難(ありがた)(かたじ)けなやと(てん)(はい)()(はい)八百万(やほよろづ)神々(かみがみ)拝脆(はいき)し、638それよりすぐさま湖畔(こはん)(くだ)りて(これ)一周(いつしう)()()()てる休屋(やすみや)附近(ふきん)浜辺(はまべ)()(さう)し、639(おひ)をおろして旅装(りよさう)()幾十年(いくじふねん)(いま)(かつ)(あぢ)ははなかつたところの暢々(のびのび)した気分(きぶん)となり安堵(あんど)(むね)()でおろすのであつた。
640 大蛇(をろち)すむ八甲田山(はつかふださん)その(ほか)
641  深山(しんざん)高峰(かうほう)(さぐ)男装坊(なんさうばう)かな。
642 (あめ)にそぼち寒風(かんぷう)()かれて男装坊(なんさうばう)
643  修行(しうぎやう)のために(また)行脚(あんぎや)なす。
644 くろかねの草鞋(わらぢ)うがちて山川(やまかは)
645  跋渉(ばつせふ)修行(しうぎやう)男装坊(なんさうばう)かな。
646 深山(しんざん)岩間(いはま)(かげ)灯影(ほかげ)()
647  ()へば不思議(ふしぎ)美女(びぢよ)一人(ひとり)()める。
648 男装坊(なんさうばう)(やま)美人(びじん)(こひ)されて
649  神慮(しんりよ)(おそ)夜暗(よやみ)()()す。
650 熱烈(ねつれつ)美人(びじん)(こひ)()ねつけて
651  (また)(やま)()げたり男装坊師(なんさうばうし)は。
652 高山(かうざん)()()()ちて十和田湖(とわだこ)
653  水鏡(みづかがみ)()(おどろ)きし男装坊(なんさうばう)
654 十和田湖(とわだこ)(ほとり)(かね)草鞋(わらぢ)はぷつときれ
655  錫杖(しやくじやう)三段(さんだん)()れて()りゆく。
656 三段(さんだん)()れし錫杖(しやくじやう)十和田湖(とわだこ)
657  水面(すいめん)さして()(しづ)みたり。
658 十和田湖(とわだこ)永久(とは)棲家(すみか)男装坊(なんさうばう)
659  (おも)ひて(こころ)(やす)らかになりぬ。
660 それより男装坊(なんさうばう)湖畔(こはん)()てる巨巌(きよがん)今篭森(いまごもりもり)(うへ)(のぼ)りて七日(なぬか)七夜(ななよ)(あひだ)不眠(ふみん)不食(ふじき)して座禅(ざぜん)(ぎやう)(しう)一心不乱(いつしんふらん)天地(てんち)神明(しんめい)祈願(きぐわん)()らし(をは)るや湖水(こすゐ)入定(にふじやう)して十和田湖(とわだこ)(ぬし)となるべく決心(けつしん)御占場(おうらなひば)湖辺(こへん)(いた)岸辺(きしべ)巌上(がんじやう)佇立(ちよりつ)して(また)もや神明(しんめい)祈願(きぐわん)した。661(とき)(あたか)十五夜(じふごや)望月(もちづき)団々(だんだん)皎々(こうこう)たる明月(めいげつ)東天(とうてん)(のぼ)りて湖上(こじやう)月影(つきかげ)(うか)大空(たいくう)一片(いつぺん)(くも)もなく微風(びふう)さへ(おこ)らず水面(すいめん)(こほ)りつきたる(ごと)静寂(せいじやく)であつた。662男装坊(なんさうばう)(あふ)いでは天空(てんくう)()ゆる(つき)(なが)め、663()しては湖上(こじやう)(つき)(なが)天地(てんち)自然(しぜん)()見惚(みと)()ること(やや)(しば)し、664やがて入定(にふじやう)時刻(じこく)(ちか)づいて()た。665瞑目(めいもく)合掌(がつしやう)して最後(さいご)祈願(きぐわん)(ささ)(いま)湖水(こすゐ)入定(にふじやう)せんとする(とき)666今迄(いままで)静寂(せいじやく)にして(かがみ)(ごと)()()りし湖面(こめん)(にはか)荒浪(あらなみ)()(おこ)円満(ゑんまん)具足(ぐそく)月輪(げつりん)(かげ)千々(ちぢ)(くだ)けて四辺(しへん)銀蛇(ぎんだ)金蛇(きんだ)(みだ)(およ)ぐかと(おも)はるる(をり)もあれ不思議(ふしぎ)なるかもその波紋(はもん)次第(しだい)次第(しだい)(おほ)きくなり(つい)には(なか)(みづうみ)(あたり)より(かなへ)()(ごと)くに洶涌(きようよう)()(なか)より猛然(もうぜん)奮然(ふんぜん)として(をど)()でたるはこの(みづうみ)(ぬし)として(ひさ)しき以前(いぜん)より湖中(こちう)()んで()八郎(はちらう)化身(けしん)竜神(りうじん)である。667頭上(づじやう)には巨大(きよだい)なる二本(にほん)(つの)(しやう)(くち)(みみ)まで()け、668白刃(はくじん)(きば)をむき()(まなこ)(かがみ)(ごと)爛々(らんらん)(かがや)幾十丈(いくじふぢやう)とも(はか)()られぬ長躯(ちやうく)中央(ちうおう)をば(だい)なる竜巻(たつまき)(てん)(ちう)したる(ごと)湖上(こじやう)(おこ)し、669男装坊(なんさうばう)をハツタと(にら)()け「ヤヨ男装坊(なんさうばう)()()け、670この(みづうみ)には八郎(はちらう)()先住(せんぢゆう)(ぬし)(まも)りあるを()らぬか、671我身(わがみ)位置(ゐち)(うば)はんと(ねら)不届者(ふとどきもの)(なんぢ)身命(しんめい)安全(あんぜん)(ねが)はば一刻(いつこく)(はや)()()退却(たいきやく)せよ」と天地(てんち)震動(しんどう)する大音声(だいおんぜう)をあげて叱咤(しつた)「叱咤」…底本では「叱咜」。(きば)をかみ()らし(つめ)をむき()し、672(ただ)一呑(ひとの)みと(ばか)()()(きた)る。673男装坊(なんさうばう)(われ)(たたか)ひを(この)むものにあらず、674三熊野(みくまの)大神(おほかみ)御啓示(ごけいじ)()つて今日(けふ)より(われ)()(みづうみ)(ぬし)となるべし。675神意(しんい)(さから)はず(おだや)かに(われ)(ゆづり)(わた)(いさ)ぎよく()()()れ、676()(すす)むれど(いか)りに()えたる八郎(はちらう)竜神(りうじん)如何(いか)(みみ)()「藉」…底本では「籍」。すべき、677十和田湖(とわだこ)(ぬし)八郎(はちらう)猛勇(もうゆう)無比(むひ)678精悍(せいかん)無双(むさう)なるを()らざるか、679この()坊主(ばうず)()()(どく)なれども()(きば)(もつ)(なんぢ)(あたま)()(くだ)き、680()(するど)(つめ)にて(なんぢ)五体(ごたい)()()かん。681覚悟(かくご)せよと怒鳴(どな)りながら()びかかる。682男装坊(なんさうばう)(いま)是非(ぜひ)なく法術(ほふじゆつ)(もつ)(これ)(たい)し、683(たがひ)秘術(ひじゆつ)(かぎ)りを(つく)(たたか)へども相互(さうご)(ちから)(ゆづ)らず不眠(ふみん)不休(ふきう)にて(あい)(たたか)ふこと七日(なぬか)七夜(ななよ)(およ)何時(いつ)勝負(しようぶ)()つべくも(おも)はれぬ状況(じやうきやう)であつた。
684 男装坊(なんさうばう)(つき)(きよ)さに憧憬(あこがれ)
685  湖面(こめん)にしばし(たたず)合掌(がつしやう)す。
686 大神(おほかみ)霊示(れいじ)棲所(すみか)()(うみ)
687  入定(にふじやう)せんため(うみ)()らんとす。
688 ()(うみ)(ぬし)なる八之太郎蛇(はちのたらうじや)
689  (なみ)荒立(あらた)てて(おこ)()したる。
690 男装坊(なんさうばう)(われ)永住(えいぢゆう)棲家(すみか)なり
691  (はや)()れよと八蛇(はちだ)(せま)る。
692 八之太郎(はちのたらう)竜神(りうじん)(いか)(つの)()てて
693  男装坊(なんさうばう)()()(せま)る。
694 男装坊(なんさうばう)ひるまずあらゆる法術(ほふじゆつ)
695  (つく)して大蛇(をろち)(いど)(たたか)ふ。
696 (てん)(ふる)()(ゆら)ぎつつ七日(なぬか)七夜(ななよ)
697  竜虎(りうこ)(あらそ)()つる(とき)なし。
698 (ここ)(おい)男装坊(なんさうばう)()むを()天上(てんじやう)()(あま)川原(かはら)棚機姫(たなばたひめ)霊力(れいりよく)()幾百千発(いくひやくせんぱつ)流星弾(りうせいだん)(もら)()(これ)爆弾(ばくだん)となして(てき)()()け、699(あるひ)雷神(らいじん)味方(みかた)()()天地(てんち)(やぶ)るる(ばか)りの雷鳴(らいめい)(おこ)さしめ大風(おほかぜ)()かせ豪雨(がうう)()らせ、700幾千万本(いくせんまんぼん)稲妻(いなづま)(やり)となしたる獅子奮迅(ししふんじん)(いきほひ)にて(いど)(たたか)へば、701八郎(はちらう)もとても(かな)はじとや(おも)ひけむ、702(しば)しの(あひだ)()(いん)(むす)呪文(じゆもん)(とな)()たりしが、703(たちま)湖中(こちう)(しづ)(ふたた)湖底(こてい)から(うか)()たるその姿(すがた)(おそ)ろしくも一躯(いつく)にして八頭(はつとう)十六腕(じふろくわん)蛇体(じやたい)(かは)り、704八頭(はつとう)(くち)八方(はつぱう)(ひら)水晶(すゐしやう)(ごと)(ひか)(きば)()()らし白刃(はくじん)(ごと)()(みが)いた十六本(じふろつぽん)(かいな)(つめ)をば十六方(じふろつぱう)()ばし風車(かざぐるま)(ごと)()(まは)しつつ敵対(てきたい)奮戦(ふんせん)するために(また)()(ちから)(あい)伯仲(はくちう)して(ゆづ)らず、705(ふたた)七日(なぬか)七夜(ななよ)不眠(ふみん)不休(ふきう)活躍(かつやく)706何時(いつ)勝負(しようぶ)(けつ)すべしとも予算(よさん)がつかぬ状況(じやうきやう)である。
707 男装坊(なんさうばう)(おも)ふに()()めに()くの(ごと)(なが)天地(てんち)(さわ)がし(まつ)るは天地(てんち)神明(しんめい)(たい)して(まこと)恐懼(きようく)()へぬ。708(いま)となつては()むを()神仏(しんぶつ)(ちから)(すが)るより(ほか)方法(はうはふ)なしと(おひ)(なか)より神書(しんしよ)一巻(いつくわん)709神文(しんもん)一巻(いつくわん)()()(これ)(うやうや)しく頭上(づじやう)(たか)(かか)げて神旗(しんき)となし朝風(あさかぜ)(なび)かせ八郎(はちらう)大蛇(だいじや)()(むか)へば、710嗚呼(ああ)不可思議(ふかしぎ)なるかな神書(しんしよ)神文(しんもん)一字(いちじ)一字(いちじ)(のこ)らず弓箭(ゆみや)となりて()()し、711激風(げきふう)()(あめ)(あられ)(ごと)八郎(はちらう)(むか)つて()びゆき()(くち)(はな)(みみ)()はず全身(ぜんしん)五体(ごたい)寸隙(すんげき)(のこ)るところなく(ささ)つて深傷(ふかで)()はせた。
712 八郎(はちらう)勇気(ゆうき)胆力(たんりよく)とにかけては天下(てんか)無双(むさう)剛者(ごうしや)なれども()しいことには無学(むがく)なりしため神書(しんしよ)神文(しんもん)(まへ)()つては男装坊(なんさうばう)対抗(たいかう)して弁疏(べんそ)すべき方法(はうはふ)()らず、713信仰力(しんかうりよく)()いでゐたのでさすがに剛勇(ごうゆう)(もつ)永年間(ながねんかん)この附近(ふきん)神々(かみがみ)鬼仙(きせん)(とう)畏服(ゐふく)せしめ()たりし八郎(はちらう)竜神(りうじん)も、714()重傷(おもで)(よわ)()(いま)(ふたた)男装坊(なんさうばう)(むか)つて抵抗(ていかう)する気力(きりよく)もなく、715(はら)(そら)(あら)はして湖上(こじやう)長躯(ちやうく)(よこ)たへ(くる)しげに呻吟(しんぎん)する(ばか)りとなつた。716その(とき)全身(ぜんしん)幾万(いくまん)瘡口(きずぐち)より鮮血(せんけつ)(あめ)(ごと)くに(なが)れて湖水(こすゐ)(そそ)(たちま)ちのうちに()(うみ)たらしめたのであつた。717(ここ)八郎(はちらう)男装坊(なんさうばう)(やぶ)千秋(せんしう)(うら)みをのんで十和田湖(とわだこ)()()小国(をぐに)(だけ)718来満山(きたみつやま)()(さら)川下(かはしも)()ちのび、719三戸郡下(さんのへぐんか)(はい)つてこの(へん)一帯(いつたい)盆地(ぼんち)(ぬま)となし十和田湖(とわだこ)(おと)らぬ(おの)棲家(すみか)(つく)らむとせしが、720この地方(ちはう)男装坊(なんさうばう)(おひ)()ちし()男装坊(なんさうばう)にとつて縁故(えんこ)(ふか)土地(とち)なるがため、721()附近(ふきん)神々(かみがみ)一同(いちどう)協定(けふてい)結合(けつがふ)して八郎(はちらう)極力(きよくりよく)排斥(はいせき)することとなり、722四方(しはう)より巨石(きよせき)(とう)じて攻撃(こうげき)されたるため、723八郎(はちらう)()たたまらずして(また)もやここを()()り、724山々(やまやま)()えて鹿角郡(かつぬぐん)()郡下(ぐんか)一円(いちゑん)大湖(たいこ)(くわ)し、725十和田湖(とわだこ)よりも(おほ)きなる湖水(こすゐ)(つく)(おもむ)ろに男装坊(なんさうばう)(たい)復讐(ふくしう)時機(じき)()たむと(くはだ)てしも、726附近(ふきん)神々(かみがみ)鬼仙(きせん)(など)十和田湖(とわだこ)()ける男装坊(なんさうばう)八郎(はちらう)(たたか)ひを観望(くわんばう)して男装坊(なんさうばう)(かみ)法力(ほふりき)727(はるか)八郎(はちらう)怪力(くわいりき)(しの)ぐに(あま)ることを()つてゐるため、728(いま)八郎(はちらう)威令(ゐれい)(まへ)(ごと)くには(おこな)はれず()附近(ふきん)守護神(しゆごじん)なる毛馬内(けばうち)月山(ぐわつさん)神社(じんじや)729荒沢(あらざは)八幡宮(はちまんぐう)730万屋(よろづや)地蔵(ぢざう)その()数千(すうせん)神社(じんじや)神々(かみがみ)大湯(おほゆ)(あつ)まりこれに古川(ふるかは)錦木(にしきぎ)機織姫(はたおりひめ)まで参加(さんか)結果(けつくわ)731大会議(だいくわいぎ)(ひら)男装坊(なんさうばう)味方(みかた)となり、732八郎(はちらう)排撃(はいげき)することと(けつ)し、733月山(ぐわつさん)頂上(ちやうじやう)(のぼ)りて大石(たいせき)瓦礫(がれき)として()()けたるため、734八郎(はちらう)()たたまらず十二所(じふにしよ)扇田(あふぎだ)(なが)れを(くだ)りて寒風山(かんぷうざん)(かげ)一湖(いつこ)(つく)り、735此処(ここ)永住(えいぢゆう)()見出(みいだ)したが八郎(はちらう)()(ちな)んで後世(こうせい)(ひと)(これ)()んで八郎潟(はちらうがた)(とな)ふるに(いた)れり。
736 かくて男装坊(なんさうばう)三熊野(みくまの)三神(さんしん)()けて神素盞嗚尊(かんすさのをのみこと)神示(しんじ)によりて弥勒(みろく)出現(しゆつげん)()ちつつありしが、737天運(てんうん)(ここ)循環(じゆんくわん)して昭和(せうわ)三年(さんねん)(あき)738四山(しざん)紅葉(もみぢ)(いま)(にしき)()らむとする(ころ)神素盞嗚尊(かんすさのをのみこと)神示(しんじ)によりて(ここ)(みづ)(みたま)十和田湖畔(とわだこはん)(きた)り、739弥勒(みろく)出現(しゆつげん)神示(しんじ)()りしより男装坊(なんさうばう)欣喜雀躍(きんきじやくやく)740風雨(ふうう)雷鳴(らいめい)地震(ぢしん)一度(いちど)(おこ)して徴証(ちようしよう)「徴証」…底本では「微証」。(しめ)しつつその英霊(えいれい)(てん)(のぼ)りたり。741それより(ふたた)現界人(げんかいじん)(はら)()「藉」…底本では「籍」。りて(うま)男性(だんせい)となりて弥勒(みろく)神政(しんせい)神業(しんげふ)奉仕(ほうし)することとはなりぬ。
742 (ああ)神界(しんかい)経綸(けいりん)深遠(しんゑん)にして宏大(くわいだい)なる到底(たうてい)人心(じんしん)小智(せうち)窺知(きち)()(かぎ)りにあらず。743(かしこ)しとも(かしこ)次第(しだい)にこそ。
744惟神(かむながら)霊幸倍坐世(たまちはへませ)
745 附言(ふげん)746男装坊(なんさうばう)現世(げんせ)再生(さいせい)し、747弥勒(みろく)神業(しんげふ)継承(けいしよう)して常磐(ときは)堅磐(かきは)神代(かみよ)樹立(じゆりつ)するの経綸(けいりん)出生(しゆつしやう)経緯(けいゐ)()いてはこと神秘(しんぴ)(ぞく)し、748()発表(はつぺう)(ゆる)されざるものあるを遺憾(ゐかん)とするものであります。
749(完)
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